2014年01月03日
村上海賊の娘 上・下 和田竜
村上海賊の娘 上・下 和田竜 新潮社
上巻を読み終え、下巻の100ページ付近まできたところで、感想を書き始めてみます。
同作者の作品は、「のぼうの城」(映画も観ました。)、「小太郎の左腕」と読み継いできました。「村上海賊の娘」は、海賊の本拠地が本州と四国をつなぐしまなみ海道にあります。広島県尾道市で宿泊したことがあるので身近に感じます。
織田信長の時代です。信長の大坂本願寺攻めが今回の舞台です。
村上海賊の娘景(きょう)不美人、嫁のもらい手なし、20才、身長180cmぐらい、男勝りが主人公です。性格は子ども、乱暴ものとなっています。実話のようです。彼女の容貌は外国人女性です。当時の日本的美人は、頬の肉付きよく、目は細く、色白、ふっくらですから、書中で何度か出る景(きょう)の容貌「醜女(しこめ)」は、ピンときません。
海賊のボスの娘である景(きょう)が、織田信長と戦って負けるお話かと思って読み始めましたが、下巻の100ページまできて、そうではありません。景は、一向宗の本拠地大坂本願寺(現在の大阪城敷地)の味方はしないし、それを攻め立てる織田信長側の加勢もしません。ただひとつ、瀬戸内海で知り合った百姓「源爺(げんじい)」とその孫「留吉」を救出するために敵味方かまわず向かっていきます。
魅力的なヒロインに民衆の気持ちを集中させる。これまでの同作者作品にみられる手法です。サムライや海賊たちは、中途半端な心理をもっています。かれらにとって重要なことは、「なになに家(け)」の存続です。ここに、景(きょう)と他の組織の親分との意識のズレがあります。他の組織の下層親分はいつでも寝返る(リーダーを裏切る)気持ちをもっています。
記述は、現代の視点で過去をふりかえりながら説明する特徴があります。ことに地形の比較は詳しい。景はハーフだったのかもしれないと読んでいる途中で考えました。
一向宗の門徒(もんと)5万6000人、僧も信徒も武器をもっています。立ち回り、戦(いくさ)の戦術の記述は絶品です。次を読ませる強烈な筆記力があります。ただ、漢字の読みはむずかしい。第三章へのつなぎは面白い。痛快です。一向宗の門徒たちはゾンビ(死兵)です。死んでも死なない。
ときおり紹介されるルイス・フロイス(当時現場にいた外国人)の書いた本は読みました。この小説のほうは、いつものとおりマンガチックな面があるし、下品でもありますが抵抗感は湧きません。
宗教が要因となった戦はすさまじい。キリスト教撲滅が要因となった島原の乱を思い浮かべました。この小説に登場する一向宗門徒たちはまるで特攻隊です。死んでも極楽浄土へいける。
先日観た邦画「清須会議」に出ていた武将の名もあり、わかったような気になりました。
何千人もの人間の首が塚のように積み上げられる。むごいシーンです。織田信長は神格化されています。
素材は、「石山合戦」。1570年勃発です。信長が大坂本願寺の敷地を欲しがったとなっています。景(きょう)は、そんなもの信長にくれてしまえばいいと考えています。(寺の敷地を別の土地へ移せばいい。)
気になるのは、上巻165ページにある村上海賊の当主村上武吉(たけよし、景の父親)と村上元吉(もとよし、23才、景の兄)、村上吉継(よしつぐ、重鎮筆頭)のやりとりで、「鬼手を他家に渡す気なのか」です。鬼手(きしゅ)とは、「景(きょう)」のことでしょう。
(つづく)
翌日、いっきに読み終えました。ていねいに織り紡がれた(つむがれた)、美しい織物のような文脈でした。
サムライにしても海賊にしても、どこもかしこも身分の差があります。されど、泉州地方(大阪)の眞鍋海賊の様子はちょっと違います。なんでも笑いにもっていこうとする。たとえ自分の死にぎわでもあっても、とぼけて最期のセリフを言おうとします。そこが面白い。後半の大部分は、景(きょう)の敵となる眞鍋七五三兵衛(まなべしめのひょうえ)の独壇場です。自分の好みとしては、七五三兵衛を村上海賊の次男、景の弟、村上景親(かげちか)に討たせてやりたかった。
景(きょう)は、留吉の救出にたいして一途(いちず)です。濃厚なクライマックスが波となって次々と押し寄せてきました。学習する。たとえ殺し合いであっても、先輩は後輩に戦術を教えるし、後輩は先輩に学ぶ。一族はそうして、生き残っていく。長期戦です。七五三兵衛の存在は大きい。泉州侍のユーモアが光っています。
海賊とはすさまじい技術をもった集団です。両者ともに善人であり悪人です。織田方にしても一向宗側にしても、村上海賊にしても眞鍋海賊にしてもです。背景にいるのは、織田信長です。みんなヤクザやギャングです。
未来の映画化にあたっては、映像化は残酷なシーンをゆるくせざるをえないでしょう。小説を読んだほうがいい。物語はなかなか終わらない。力作です。
以下は、補足です。
漢字単語の意味です。「小早(こばや)」は小型の軍船、人力、風力で動く船。自由自在な動きがすてきです。これより大きい船が、「関船」、もっと大きいのは「安宅船(あたけ)」で、両船には指示するリーダー格が乗船します。
「名人久太郎」信長の側近、堀久太郎。先日観た邦画「清須会議」で、こどもをあやす方法を秀吉に教えていました。
景(きょう)の心理として、戦は華やかで勇ましいと誤解していた。景の戦いのための意識として、自分のために闘うのではなく、他人のために闘う。
当時の日本にいたルイス・フロイスのレポートとして、(当時の)日本人は、子を育てるにあたって、決して、暴力による懲罰を加えなかった。言葉でまじめに説明した。親はこどもをしつけるのに手をあげなかった。
村上景親(かげちか)。景の兄。自らが剣の達人であることに長い間気づけなかった。
この時代、詫び(わび、責任をとる)として、腹を切るという発想はなかった。(だれが最初に切腹を思いついたのだろう。)
眞鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)の言葉、(息子8才ぐらい)次郎を思い切り阿呆に育ててくれ。
海戦は六分の勝ちをもって勝利とする。
読んで良かった一冊でした。なにか賞をとってほしい。
上巻を読み終え、下巻の100ページ付近まできたところで、感想を書き始めてみます。
同作者の作品は、「のぼうの城」(映画も観ました。)、「小太郎の左腕」と読み継いできました。「村上海賊の娘」は、海賊の本拠地が本州と四国をつなぐしまなみ海道にあります。広島県尾道市で宿泊したことがあるので身近に感じます。
織田信長の時代です。信長の大坂本願寺攻めが今回の舞台です。
村上海賊の娘景(きょう)不美人、嫁のもらい手なし、20才、身長180cmぐらい、男勝りが主人公です。性格は子ども、乱暴ものとなっています。実話のようです。彼女の容貌は外国人女性です。当時の日本的美人は、頬の肉付きよく、目は細く、色白、ふっくらですから、書中で何度か出る景(きょう)の容貌「醜女(しこめ)」は、ピンときません。
海賊のボスの娘である景(きょう)が、織田信長と戦って負けるお話かと思って読み始めましたが、下巻の100ページまできて、そうではありません。景は、一向宗の本拠地大坂本願寺(現在の大阪城敷地)の味方はしないし、それを攻め立てる織田信長側の加勢もしません。ただひとつ、瀬戸内海で知り合った百姓「源爺(げんじい)」とその孫「留吉」を救出するために敵味方かまわず向かっていきます。
魅力的なヒロインに民衆の気持ちを集中させる。これまでの同作者作品にみられる手法です。サムライや海賊たちは、中途半端な心理をもっています。かれらにとって重要なことは、「なになに家(け)」の存続です。ここに、景(きょう)と他の組織の親分との意識のズレがあります。他の組織の下層親分はいつでも寝返る(リーダーを裏切る)気持ちをもっています。
記述は、現代の視点で過去をふりかえりながら説明する特徴があります。ことに地形の比較は詳しい。景はハーフだったのかもしれないと読んでいる途中で考えました。
一向宗の門徒(もんと)5万6000人、僧も信徒も武器をもっています。立ち回り、戦(いくさ)の戦術の記述は絶品です。次を読ませる強烈な筆記力があります。ただ、漢字の読みはむずかしい。第三章へのつなぎは面白い。痛快です。一向宗の門徒たちはゾンビ(死兵)です。死んでも死なない。
ときおり紹介されるルイス・フロイス(当時現場にいた外国人)の書いた本は読みました。この小説のほうは、いつものとおりマンガチックな面があるし、下品でもありますが抵抗感は湧きません。
宗教が要因となった戦はすさまじい。キリスト教撲滅が要因となった島原の乱を思い浮かべました。この小説に登場する一向宗門徒たちはまるで特攻隊です。死んでも極楽浄土へいける。
先日観た邦画「清須会議」に出ていた武将の名もあり、わかったような気になりました。
何千人もの人間の首が塚のように積み上げられる。むごいシーンです。織田信長は神格化されています。
素材は、「石山合戦」。1570年勃発です。信長が大坂本願寺の敷地を欲しがったとなっています。景(きょう)は、そんなもの信長にくれてしまえばいいと考えています。(寺の敷地を別の土地へ移せばいい。)
気になるのは、上巻165ページにある村上海賊の当主村上武吉(たけよし、景の父親)と村上元吉(もとよし、23才、景の兄)、村上吉継(よしつぐ、重鎮筆頭)のやりとりで、「鬼手を他家に渡す気なのか」です。鬼手(きしゅ)とは、「景(きょう)」のことでしょう。
(つづく)
翌日、いっきに読み終えました。ていねいに織り紡がれた(つむがれた)、美しい織物のような文脈でした。
サムライにしても海賊にしても、どこもかしこも身分の差があります。されど、泉州地方(大阪)の眞鍋海賊の様子はちょっと違います。なんでも笑いにもっていこうとする。たとえ自分の死にぎわでもあっても、とぼけて最期のセリフを言おうとします。そこが面白い。後半の大部分は、景(きょう)の敵となる眞鍋七五三兵衛(まなべしめのひょうえ)の独壇場です。自分の好みとしては、七五三兵衛を村上海賊の次男、景の弟、村上景親(かげちか)に討たせてやりたかった。
景(きょう)は、留吉の救出にたいして一途(いちず)です。濃厚なクライマックスが波となって次々と押し寄せてきました。学習する。たとえ殺し合いであっても、先輩は後輩に戦術を教えるし、後輩は先輩に学ぶ。一族はそうして、生き残っていく。長期戦です。七五三兵衛の存在は大きい。泉州侍のユーモアが光っています。
海賊とはすさまじい技術をもった集団です。両者ともに善人であり悪人です。織田方にしても一向宗側にしても、村上海賊にしても眞鍋海賊にしてもです。背景にいるのは、織田信長です。みんなヤクザやギャングです。
未来の映画化にあたっては、映像化は残酷なシーンをゆるくせざるをえないでしょう。小説を読んだほうがいい。物語はなかなか終わらない。力作です。
以下は、補足です。
漢字単語の意味です。「小早(こばや)」は小型の軍船、人力、風力で動く船。自由自在な動きがすてきです。これより大きい船が、「関船」、もっと大きいのは「安宅船(あたけ)」で、両船には指示するリーダー格が乗船します。
「名人久太郎」信長の側近、堀久太郎。先日観た邦画「清須会議」で、こどもをあやす方法を秀吉に教えていました。
景(きょう)の心理として、戦は華やかで勇ましいと誤解していた。景の戦いのための意識として、自分のために闘うのではなく、他人のために闘う。
当時の日本にいたルイス・フロイスのレポートとして、(当時の)日本人は、子を育てるにあたって、決して、暴力による懲罰を加えなかった。言葉でまじめに説明した。親はこどもをしつけるのに手をあげなかった。
村上景親(かげちか)。景の兄。自らが剣の達人であることに長い間気づけなかった。
この時代、詫び(わび、責任をとる)として、腹を切るという発想はなかった。(だれが最初に切腹を思いついたのだろう。)
眞鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)の言葉、(息子8才ぐらい)次郎を思い切り阿呆に育ててくれ。
海戦は六分の勝ちをもって勝利とする。
読んで良かった一冊でした。なにか賞をとってほしい。
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