2009年07月27日
壬生義士伝(みぶぎしでん)
壬生義士伝(みぶぎしでん) SHV(SHOCHIKU HOME VIDEO)
こちらの作品は、テレビでちらりちらりと見たことがありますが、詳しくは知りません。まず、1回見て、次の日にもう1回見てみました。映画は、3回見ると、中身が把握できます。わたしには、本読みにしても、資料の理解にしても一度でわかるような能力はありません。繰り返しながら少しずつ味わいたい。
壬生寺(みぶでら)という新撰組が拠点としていたお寺さんが京都にあります。NHK大河ドラマでブームになったときに行ったことがあります。この映画では新撰組の吉村寛一郎さんが主役です。岩手県出身でめっぽう剣が強い。されど、生活に困っている故郷の妻子に仕送りをしています。
「義をとおす」という意味がわかりません。うちの家族の一人が「忠誠を尽くす」と解釈しましたが、だれに? という疑問は消えません。映画と小説は中身が違うのかもしれません。
純粋であるがゆえに短命とならざるを得ない。悲劇です。わたしはこの映画は主人公が、とんがり帽子をかぶった官軍の兵士たちに鉄砲でメチャクチャに打たれたシーンで終わりだと思っていました。今回、その後の長いシーンがあることを知りました。ただ、主人公がぼそぼそと話すので、耳が少し遠くなってきたわたしには、言葉が聞き取れません。(その後、日本語字幕を出すことができることに気づきました。)
2回目の鑑賞では、冒頭のシーンに吉村寛一郎さんの娘さんが何度も写っていることがわかりました。しみじみとする演出です。
侍でありながら、妻子が食べていくだけの給料がもらえないということが不思議でした。出稼ぎをするがごとく、寛一郎さんは新撰組に入隊します。侍に限らず、東北地方の出稼ぎ慣例は、昭和の時代まで続いたのでしょう。
選挙についても考えました。もし、選挙制度がなければ、対立する集団同士は武力行使をすることになります。
亡くなった寛一郎さんはゴースト(幽霊)になってこの世に残り、家族を見守るのでしょう。この映画は「おとうさん」のあり方の表現でもあります。妻と息子と娘を養っていくために人を殺してでも収入を得る。彼にとって「義をとおす」ということは、父親(所帯主)として家族を養っていくというもので、妻子への感謝です。
寛一郎さんの娘さん夫婦は満州へ渡っていくわけですが、わたしは原作者の浅田次郎著「蒼穹の昴(そうきゅうのすばる)」を読んだことがあり、壬生義士伝から中国を舞台とした作品へと製作が移っていったのではないかと推察し、胸がわくわくしました。
(以下2010年9月18日記述)
秋に東北旅行を計画しています。目的は「岩手山」を見ることです。この映画に短時間ですが、岩手山が雪をかぶった映像が出ます。昨年11月下旬に青森県を訪れました。わたしは、この映画に登場する山を「岩木山」だと思っていました。行ってみたら違う山でした。それから、南部藩というのがよくわからなくて、東北なのにどうして「南部」なのだろうかと今でも疑問に思っています。「北部藩」ならしっくりくるのです。青森と岩手の違いもよくわかりません。東海地方以西で暮らす人間にとって、東北は遠い場所です。岩手県の県庁所在地をすらりと言える人は少ないでしょう。岩手県と宮城県の県境もよくわかりません。奥入瀬渓流は、岩手県にあると思っていました。青森県でした。
何度見てもいい映画です。見終えたあともところどころの場面を幾度か見返しました。吉村寛一郎が主役であるけれど、実は、彼の周囲にいる人たちの生き方が主題であることに気づきました。川の流れのように大勢の人たちの人生が流れていきます。一人の人間(英雄である吉村氏)の影響力は強い。郷土愛の強さにも胸を打たれます。
「おもさでながんす」という方言は、どう発音しているのか、どういう意味なのかはわかりません。「ありがとうございます」のようでもあるし、「申し訳ない」ともとれます。どういう場面でも使える言葉だと受け取りました。意味も発音もあいまいな面があります。おもさで(なんとかで)がんす、とも聞こえます。それから「死んではいけない」という発言が各所であります。好感をもちました。
こちらの作品は、テレビでちらりちらりと見たことがありますが、詳しくは知りません。まず、1回見て、次の日にもう1回見てみました。映画は、3回見ると、中身が把握できます。わたしには、本読みにしても、資料の理解にしても一度でわかるような能力はありません。繰り返しながら少しずつ味わいたい。
壬生寺(みぶでら)という新撰組が拠点としていたお寺さんが京都にあります。NHK大河ドラマでブームになったときに行ったことがあります。この映画では新撰組の吉村寛一郎さんが主役です。岩手県出身でめっぽう剣が強い。されど、生活に困っている故郷の妻子に仕送りをしています。
「義をとおす」という意味がわかりません。うちの家族の一人が「忠誠を尽くす」と解釈しましたが、だれに? という疑問は消えません。映画と小説は中身が違うのかもしれません。
純粋であるがゆえに短命とならざるを得ない。悲劇です。わたしはこの映画は主人公が、とんがり帽子をかぶった官軍の兵士たちに鉄砲でメチャクチャに打たれたシーンで終わりだと思っていました。今回、その後の長いシーンがあることを知りました。ただ、主人公がぼそぼそと話すので、耳が少し遠くなってきたわたしには、言葉が聞き取れません。(その後、日本語字幕を出すことができることに気づきました。)
2回目の鑑賞では、冒頭のシーンに吉村寛一郎さんの娘さんが何度も写っていることがわかりました。しみじみとする演出です。
侍でありながら、妻子が食べていくだけの給料がもらえないということが不思議でした。出稼ぎをするがごとく、寛一郎さんは新撰組に入隊します。侍に限らず、東北地方の出稼ぎ慣例は、昭和の時代まで続いたのでしょう。
選挙についても考えました。もし、選挙制度がなければ、対立する集団同士は武力行使をすることになります。
亡くなった寛一郎さんはゴースト(幽霊)になってこの世に残り、家族を見守るのでしょう。この映画は「おとうさん」のあり方の表現でもあります。妻と息子と娘を養っていくために人を殺してでも収入を得る。彼にとって「義をとおす」ということは、父親(所帯主)として家族を養っていくというもので、妻子への感謝です。
寛一郎さんの娘さん夫婦は満州へ渡っていくわけですが、わたしは原作者の浅田次郎著「蒼穹の昴(そうきゅうのすばる)」を読んだことがあり、壬生義士伝から中国を舞台とした作品へと製作が移っていったのではないかと推察し、胸がわくわくしました。
(以下2010年9月18日記述)
秋に東北旅行を計画しています。目的は「岩手山」を見ることです。この映画に短時間ですが、岩手山が雪をかぶった映像が出ます。昨年11月下旬に青森県を訪れました。わたしは、この映画に登場する山を「岩木山」だと思っていました。行ってみたら違う山でした。それから、南部藩というのがよくわからなくて、東北なのにどうして「南部」なのだろうかと今でも疑問に思っています。「北部藩」ならしっくりくるのです。青森と岩手の違いもよくわかりません。東海地方以西で暮らす人間にとって、東北は遠い場所です。岩手県の県庁所在地をすらりと言える人は少ないでしょう。岩手県と宮城県の県境もよくわかりません。奥入瀬渓流は、岩手県にあると思っていました。青森県でした。
何度見てもいい映画です。見終えたあともところどころの場面を幾度か見返しました。吉村寛一郎が主役であるけれど、実は、彼の周囲にいる人たちの生き方が主題であることに気づきました。川の流れのように大勢の人たちの人生が流れていきます。一人の人間(英雄である吉村氏)の影響力は強い。郷土愛の強さにも胸を打たれます。
「おもさでながんす」という方言は、どう発音しているのか、どういう意味なのかはわかりません。「ありがとうございます」のようでもあるし、「申し訳ない」ともとれます。どういう場面でも使える言葉だと受け取りました。意味も発音もあいまいな面があります。おもさで(なんとかで)がんす、とも聞こえます。それから「死んではいけない」という発言が各所であります。好感をもちました。
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