2022年10月07日
ざんねんな先生 有馬心一朗
ざんねんな先生 有馬心一朗(ありま・しんいちろう) 新評論
『これから出る本』の情報をチェックしていて目に留まったので読んでみることにしました。
『ざんねんな』は、ヒットした『ざんねんななんとか』シリーズにヒントがあるタイトル付けだろうと思いました。
タイトルだけみると、内部告発本のようにもみえます。
だいじょうぶだろうか。
親として教師や学校に望むことは、学校で事件や事故がないようにということです。
それだけです。生きてちゃんと卒業させてもらえればいい。
以前読んだ本でいい本がありました。
『友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 菅野仁(かんの・ひとし) ちくまプリマ―新書』
著者は2016年(平成28年)56歳のときに癌で亡くなっています。亡くなった方が残したメッセージです。
著者は大学の先生で、娘さんが不登校になって悩まれたことがこの本を書くきっかけだったというような記憶です。そして、お父さんが亡くなった数か月あとに、娘さんも心臓の病気で亡くなっています。
その本を読んだときの読書メモの一部です。著者が望む教師像です。
生徒の記憶に残らない教師像でいい。ドラマや映画の教師像はドラマや映画のなかだけのものです。一般的に、現実には、過剰な精神的関与や信念の押しつけはしないとあります。教師に人格の高い高邁な資質を求めない。(こうまい:ぬきんでている能力をもつ)
(1回目の本読み)
ゆっくりすべてのページを最後までめくります。
『ざんねん』という単語がいっぱい出てきます。
へんてこりんな癖(くせ)をもつわたしは、何回『ざんねん』という言葉が出てくるか、カウントしてみることにしました。
本のカバーにふたつ、本の本体表紙にひとつ…… 目次にもいっぱい『ざんねん』があります。
本文は全体で、227ページあります。
以前別の本で同様に『ため息』という言葉をカウントしたことがあります。『みんなのためいき図鑑 村上しいこ・作 中田いくみ・絵 童心社』でした。『ためいき』という単語が218回出てきました。この本の『ざんねん』で新記録達成となるでしょうか。楽しみです。(64ページまで読んで気づいたのですが、奇数ページの左上に章とみだしの文章があり、延々と「ざんねん」が表示されています。その「ざんねん」もカウントに加えることにしました)
読み終えた結果です。「ざんねん」とか「残念」という単語が本のカバーと本文に132回ありました。また、奇数ページの左上の表示に109回ありました。合計で241回です。『ためいき』を抜きました。だからなんということもないのですが。「ざんねん」は目にすると気持ちが沈む単語ですから、ちょっと多すぎるかなと感じました。
「大告白」とあるから内情暴露です。
暴露して、対策を提示するのでしょう。
この本は何を目指しているのかを考えながら読みます。
「ざんねんじゃない状態」は、どんなものなのか。
現実には、100%改善・改革できることはなかなかありません。
世の中は、グレーゾーン(灰色)で調和をとっています。
モデルとなる教師像があるのだろうか。
だれなのかわかるとまずいんじゃないのか。
ページをめくりながらふと思う。
現実社会では、民間事業者や依頼する立場の人間を見下す学校の先生がいます。
先生は、いばっています。
民間事業者等より、教職のほうが、立場が上だといばっています。
民間事業者等は、頼むほうの立場なので、ぺこぺこするしかありません。
先生も変だけど、親も変らしい。
学校は人生においては、通過点でしかない。
早く通過したい。こどもの心身が病気にならないようにして、無事に卒業させてほしい。
こどもは、長時間イスに座って、じっとして、理解できない話を聞かされて、とても苦痛です。
昔からずーっとそうでした。
身体を拘束(こうそく)されての授業はとても苦痛です。
公務員を目指す動機が『安定しているから』だけの人は、公務員にならないでほしい。
そういう人は選考時に、はじいてほしい。
教職者は、大学を出て、会社勤めをしたことがないから、組織で働く人間の苦労を体験していない。社会人といえるようでそうでもない。
後半には、スポーツが強い学校のことが書いてあるようです。
強豪校は、学校をPRするために、スポーツ活動を推進します。
「あとがき」を読みました。
著者がメモ魔であることが書いてあります。(わたしも同様です)
饒舌です。(じょうぜつ:おしゃべり多い)
自慢もあるし、読んだ人が嫌悪感をもつかも。
まあ、読んでみます。
(2回目の本読み)
モンペ:モンスターペアレント(筋の通らない要求や苦情を繰り返すしつこい親)の略語。
学校でトラブルがあったとしても、卒業までの一時的な事柄なので、がまんして、時間が経過するのを待つということはあります。生徒も先生も一時的な出会いです。
それではいけないと著者は主張します。
自分は、学校は『人間』を学ぶ場所だと考えています。
先生も児童・生徒も人間的に100%いい人はいません。
『残業』のことが書いてあります。
不思議です。
一般サラリーマンは、早朝から満員電車に揺られて出勤して、夜遅くに帰宅して、また翌朝早く出勤して、土日の休みは死んだように眠っているということの繰り返しの毎日です。出世したかったら長時間労働は当たり前です。
教師には、業務としての金銭的な達成目標はありません。いわゆるノルマ(お金の獲得目標値)はありません。
自分で労働時間内の行動の割り振りを自由にできる裁量もありそうです。
自費で自分の時間で仕事の勉強をしている労働者はいくらでもいます。
『居残り給食』食べ残しを許さない。
自分は体験したことがあります。
ぬるぬるするワカメがにがてで、どうしてもみそ汁のなかのワカメがのどを通ってくれませんでした。
小学校低学年の時に、同じくワカメがにがてなクラスメートとふたりで、給食時間が終わったあとも、黒板の前に横に並んで正座させられて、飲めないワカメのみそ汁を飲もうとしていました。
結局、飲めませんでした。掃除の時間が始まって、まわりにいる児童たちは、ぞうきんがけなどの掃除をしていて、泣けて来たのを覚えています。
もう半世紀以上もたったのに、まだ覚えているということは、そのときのショックが脳みそのどこかに残っているのでしょう。
授業中にこどもにビンタをする先生は何人か見ました。
案外、女性の教師がそういうことをしていました。言うことをきかなければ、たたかれるのです。
生徒をげんこつでなぐる男性教師もいました。
感情的な暴力でした。
合法的な、児童、生徒に対する虐待です。
髪の長い女子中学生が、男性教師に長い髪をつかまれて、円盤投げのときのように、教師がコンパスの中心に位置して、女生徒がぐるぐる回されていたのを遠めに見たことがあります。
半世紀以上前は、親も文句を言わない時代でした。こどもは、家では親兄弟に叩かれて、学校では先生や先輩や級友に叩かれて、ときには、生意気な下級生にも叩かれて、それでもそれが普通の時代でした。人にもまれながら、強くたくましく、図太く(ずぶとく)生きることを学びました。
アナフィラキシー:アレルギー反応による症状。
社会では、頭が良くても、自分の思いどおりにならないと、机を叩いたり、イスを蹴ったりする人がいます。凶暴です。自分で自分の感情と言動をコントロールすることができないようです。
本に書いてある文章は饒舌です。(じょうぜつ。言葉数が多い)
文章量を減らしたほうが読みやすくわかりやすい。
ときに、感情的な勢いがあります。
「ざんねんな教師」に対する対応を求めておられます。
公務員である教職員は身分保障が手厚いので、なかなか解雇処分はできないでしょう。
反故(ほご):なかったことにする。
鉄棒で、さかあがりができてもできなくても、人間は生きていけるということはあります。
(つづく)
たまたま同時進行で読んでいる『こんな人いるよねぇ~ つぶやきシロー 自由国民社』つぶやきシローさんが出版社に与えられた本の読書感想メモを書いてある本なのですが、こちらの本と似たようなタイトルの本が紹介されています。『残念な教員 学校教育の失敗学 林純次 光文社』
ネットで、その本と今読んでいるこの本の感想を読みました。賛否両論あります。まあ、そうなるような内容です。関係者が読んだら、腹を立てる人もいるでしょう。予想どおりの感想でしょう。
本にいろいろ書いてありますが、教員とか教育関係の組織の人って、性的趣向がどうかと思うようなニュースをときおり目にします。
盗撮とか、SNS出会い系交際アプリサイトでこどもをだますとか、ストーカーになるとか、脳みその中はだいじょうぶだろうかと心配します。この本では、ロリコンのことが書いてあります。幼児趣味の性癖です。エロ教師では、学校にこどもを預ける親は心配になります。
信頼関係がないと、どこの世界でもうまくいきません。
性癖で変な人を教員に採用しないでほしいし、変なことをした人は二度と採用しないでほしい。いくら制裁を与えても直らない病気です。なのに、本では、再度採用されることが書いてあります。残念です。不満です。不信感が湧きます。
そもそも法令では、そんな変な人が教育職に就くということを想定していないのでしょう。抜け穴があります。
上司は何もしません。関わり合いになりたくないのです。
教職の人は二重人格の人が多いという文章を以前読んだことがあります。
いい人でいなければならないということはつらいでしょう。
教師でなくても、表向きは、差別はいけないといいながら、内部ではあからさまに差別する人がいます。同様に、いじめはいけないといいながら、裏では人をいじめている人もいます。自分が加害者だという意識はありません。人間とはそういうもの。それでいいと割り切っているようです。
頭がいい人たちのいじめは陰湿です。なかなか表に出ません。
こども相手の仕事は、弱い者いじめの面があります。
親の顔色をうかがってのえいこひいきもあるでしょう。
いじめ加害者のこどもの親や親族が、地元の名士(めいし。有名人)や地元で要職に就いていて、気後れ(きおくれ)や遠慮・配慮があることもあるのでしょう。。
アイドルオタクの教師について書いてあります。
脳みその中は少年です。
見た目はおとなでも頭の中はこどものままです。
保護者には、教師からこどもを守るための選択肢の数は限られています。
異常な空間です。
42ページ付近の教師のファッション(服装)に関する批判の記述は、言い過ぎではなかろうかという感想をもちました。
著者は攻撃的です。『自分(たち)とあいつら』の世界です。
(つづく)
学校という狭い世界の奥深い話が続きます。
兵庫県で実際にあった小学校教師同士のいじめ事件のことが出ます。ボス的存在の女教師を含む4人の小学校教師が若手教師をいたぶっています。もしかしたら、一般企業や組織でもありそうなことです。だれかをいじめることで、ストレスを解消する。
職場に『村社会』があって、村長の立場のボスがいて、取り巻きの村民がいる。自分たちだけで通用するルールをつくって、掟(おきて。破ってはいけないこと)で被害者を縛る。(しばる)
昔だったら、いじめの被害者は、泣き寝入りで終わることが多かった。現代は、動画配信の時代です。加害者の動きも言葉も記録されて外に発信できます。
先生は、人間を評価する人たちです。
人間を評価することが仕事です。
評価をやめたらどうなるのだろう。
評価をやめてもいいのではないか。
社会に出て働いて食べていくうえで、学校の評価の影響や効果は小さそうです。
科目によって、できるできないは、個人それぞれの能力の違いではなかろうか。
わが子を自慢したい毒親がいます。
中学受験合格をまわりに自慢する親です。
そんな親の子どもは、ほんとうに幸せなのだろうか。
『友だち』というのは、微妙な関係です。
上下関係があったりします。
相手を見下しての友だち関係ということがあります。
たしか、恐ろしい作品がありました。乃南アサ作品でした。
読んだ時の読書メモが残っています。周囲が親友同士だと思っていたふたりが、殺人の加害者と被害者になるのです。
『殺意・鬼哭(きこく・亡霊が浮かばれないで泣く) 乃南アサ 双葉文庫』
2本の小説が1本の作品になっています。「殺意」は殺したほう、「鬼哭(きこく)」は殺されたほう、それぞれの当事者が語り続けます。珍しい形式です。
『殺意』恐ろしいお話です。世の中にこのような人間がいないと否定できません。真垣徹36才会社員は殺人刑で収監されて8年が経過しています。12年の刑ですがもうすぐ仮出所します。彼は、周囲の人間が彼の親友とみていた人物を刺殺しました。
『鬼哭(きこく・死者のすすり泣き)』真垣徹36才に刺殺された的場直弘40才のひとり語りが続きます。的場直弘が、真垣徹に刃物で刺されて意識を失うまでの3分間の思考が、178ページに渡って延々と表現されます。加害者の真垣は、被害者の的場を、自分を支配している者としてとらえていました。こちらは相手に好かれていると思っていても、相手はこちらを嫌っている。殺された的場は、殺した真垣からみて、殺される理由をもっていました。相手に忍耐をさせる関係を、親友とは呼ばないのです。
よかれと思ってやったことが、相手にとっては迷惑なことだったというのは、よくあることです。
ただ、そういうものだと思えばよいということはあります。悪意があるわけではないのですから。
1年目で実技経験のないまじめな女教師が担任になるのはハズレというような記述があります。
女教師を、一方的に教える側の人として考えるとそうなるのでしょうが、お互いとその周囲という固まりで、全体が育つように考えることが一般的です。
こどもに向かって「お前ら、バカか!」「死ねよ!」と教師が言うそうです。侮辱(ぶじょく)、脅迫、恐喝(きょうかつ)です。罰されます。ばかでもそこそこ生活していけます。だいじょうぶです。先生には、そこまで心配してもらわなくてもいいです。
64ページまで読んだところで、この本の構成を整理してみます。
まえがき
(以下「ざんねん」を頭につけて)
先生のタイプを分類してざんねんとする。
授業を科目別に分類してざんねんとする。
学校行事ごとに、その内容についてざんねんとする。
部活のクラブごとに分類してざんねんとする。
あとがき
参考文献一覧
先生の仕事は少なくとも民間企業のような『利益の追求』ではありません。
先生の仕事は、こどもの生命を守ることが最優先です。親としては、一番大事なことです。それ以上のことは望んでいません。無事に卒業証書を手にすることができればいい。
記述にありますが、教師も含めて、本を読む人は減りました。
国語はけっこうむずかしいです。
スポーツといっしょで、生まれつきの能力ということもあります。
文章を書くことはむずかしい。
Fランク大学とは何だろう?:偏差値40以下の学力底辺校とあります。初めて聞きました。Fランク大学卒の教師は、頭のいいこどもたちから、ばかにされるそうです。
『体育』は、遊びの延長、気休めの場なのか。
いろいろと指導の仕方の良しあしで、細かい分析が入ります。
読んでいて、そこまで先生にがんばってもらわなくてもいいですよと言いたくなります。
親としては、こどもにけがのないように対応していただければいいです。
勝ち負けは関係ありません。
ドッジボールの記事を読んでいたら、自分たちがこどものころはみんな貧乏で、ボールを買うお金がなくて、古新聞紙をまるめてのりで固めて、ドッジボールにしたり、野球遊びのボールにしたりして遊んでいたことを思い出しました。体に当たっても痛くないボールです。楽しかった。
ベクトル:向いている方向。
外国人英語教師はハイテンション、小学校の英語の授業はハイテンションだそうです。
ハイテンション:感情が高ぶる。
無意味にハイテンションという文脈です。
読んでいて『ひきこもり』について考えています。
ひきこもっているこどもと、通学しているこどもの学力差が、一日一日経過するごとに開いていきます。日数がたつほど、能力差は開きます。ひきこもっているこどもの脳内の世界は、いつまでたってもこどものままです。されど、本人がその気にならないとなんともいたしかたありません。
『いじめはいじめ』ではなく『いじめは犯罪』という理屈には賛成です。『犯罪は罰せられます』
いじめる人の性格は、生まれつきのもので変わらないと思ったことがあります。
いじめるほうを擁護(ようご。かばう。守る)する教職員関係者がいます。加害者を助けることで、なにか自分に利益があるのでしょう。
授業のやりかたのすべてがムダというような書き方は、授業をしている立場の人が読んだら救われない気持ちになるでしょう。
ムダだという『道徳』の授業が年間315時間あるそうです。うーむ。いろいろと考えさせられます。
運動会の練習で熱中症になるというニュース報道をよく聞きます。
無理をしないでほしい。
半世紀ぐらい前は、熱中症という症状は聞いたことがありませんでした。日射病はありました。不思議です。
ずいぶん前から、小中学校の運動会は、親抜きで開催されているような気がします。
この本では、親に見せるために運動会の練習をするという内容で書いてあることが、違和感があって、ちょっと現実味がありませんでした。
町内会の運動会なら親も子も参加しています。
運動会での組体操は、半世紀以上前の自分たちの時代は、なんの疑問も持たず、だれがやってもできることとしてやっていました。
山がくずれることがあってもけがをしたということは聞いたことがありませんでした。
時の流れで、いろいろなことが正反対に変化してきました。
体育というのは、練習をしたから1番になれるというものでもありません。
他の科目でも同じです。勉強時間が長かったから1番になれるわけではありません。
勉強ができたから仕事もできるわけでもありません。
1997年にポケモンの動画がまぶしくて、気分が悪くなるこどもがたくさん出た話が書いてあります。
そういうことがあったと思い出しました。
なにごともやりすぎてはいけないようです。
越えてはいけない一線は、越えてはいけないのです。
中国であった修学旅行生の鉄道死亡事故の記事も読んでいて思い出しました。
思えば、毎年、どこかで事故が発生して、命を落とす人がいます。
病気やけが、事件や事故、自然災害は、人生に付き物です。
どうやったら避けられるのか。まずは自分が危機管理の警戒心をもって用心する。
二分の一成人式というのは、自分に知識がありません。そういうものがあるのか。10歳でなにか儀式があるのか。何のためにするのか。わたしにはわかりません。
読んでいると、やらなくてもいいことをやっている。それが仕事とされている。
時間つぶしをすることが仕事。
『指導死』有形と無形あり。有形は、指導中の死。無形は、子の自殺。
直接は見ていませんが、中学の時、マラソンをしていて倒れて亡くなった同級生がいました。
もし、教師が強制してマラソンをさせたのなら有形なのでしょう。真相はわかりません。
高校の柔道で亡くなった先輩がいたと聞いたことがあります。これも有形なのか。指導した教師はその後も働いていました。
この本には、有形の指導死は隠蔽されやすい(いんぺい:組織を守るために真実をわざと隠す)と書いてあります。
無形というのは身の回りでは、聞いたことはありません。
無形について、本では、野球とかサッカーの部活について書いてあります。悩んでの自殺です。
指導者と合わなくて、どうにもこうにもやっていけないとなれば、部活における野球の選手もサッカーの選手も部をやめればいいのです。その代わり、高校の卒業証書は必ず手に入れたほうがいい。スポーツ推薦であったとしても授業料をちゃんと払えば退学処分にはならないと思います。人間関係において、合う合わないはあります。無理すると心が壊れます。
学校でなくても、人事権やお金の裁量権をもったリーダーが、パワハラやセクハラをやると、部下は最悪の思いをすることになります。(今のロシアの大統領に似ています)
お金のためなら何をやってもいい。お金を出しているから何でもやらせろです。めちゃくちゃです。
嫌いなリーダーに従わなければならない立場の者はつらい。
少し前に書いた『いじめは犯罪』という考え方にのっとって、パワハラ、セクハラは犯罪だから警察に通報する。権力の濫用(らんよう。基準や限度を超えて権力を行使する)をするリーダーは、たとえ外見的に合法的であったとしても、リーダーから引きずりおろして、組織から永久追放する。
マスコミに対する批判もあります。
『美談』を求めるような台本をつくって、映像と音楽で雰囲気を創作して、つくり話の情報を流して、人心を操作する。(これもまたロシアの報道スタイルに似ています)
全体を読み終えた感想です。
著者の一生懸命な気持ちはよく伝わってきました。
されど、現場が変化することは大変そうです。
学校は、一般的に、教師にとってもこどもにとっても、親にとっても、一時的な滞在地で『駅』のようなものです。
学校を経て、みんなそれぞれが、自分の生きたいところへ出発していくのです。
『これから出る本』の情報をチェックしていて目に留まったので読んでみることにしました。
『ざんねんな』は、ヒットした『ざんねんななんとか』シリーズにヒントがあるタイトル付けだろうと思いました。
タイトルだけみると、内部告発本のようにもみえます。
だいじょうぶだろうか。
親として教師や学校に望むことは、学校で事件や事故がないようにということです。
それだけです。生きてちゃんと卒業させてもらえればいい。
以前読んだ本でいい本がありました。
『友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 菅野仁(かんの・ひとし) ちくまプリマ―新書』
著者は2016年(平成28年)56歳のときに癌で亡くなっています。亡くなった方が残したメッセージです。
著者は大学の先生で、娘さんが不登校になって悩まれたことがこの本を書くきっかけだったというような記憶です。そして、お父さんが亡くなった数か月あとに、娘さんも心臓の病気で亡くなっています。
その本を読んだときの読書メモの一部です。著者が望む教師像です。
生徒の記憶に残らない教師像でいい。ドラマや映画の教師像はドラマや映画のなかだけのものです。一般的に、現実には、過剰な精神的関与や信念の押しつけはしないとあります。教師に人格の高い高邁な資質を求めない。(こうまい:ぬきんでている能力をもつ)
(1回目の本読み)
ゆっくりすべてのページを最後までめくります。
『ざんねん』という単語がいっぱい出てきます。
へんてこりんな癖(くせ)をもつわたしは、何回『ざんねん』という言葉が出てくるか、カウントしてみることにしました。
本のカバーにふたつ、本の本体表紙にひとつ…… 目次にもいっぱい『ざんねん』があります。
本文は全体で、227ページあります。
以前別の本で同様に『ため息』という言葉をカウントしたことがあります。『みんなのためいき図鑑 村上しいこ・作 中田いくみ・絵 童心社』でした。『ためいき』という単語が218回出てきました。この本の『ざんねん』で新記録達成となるでしょうか。楽しみです。(64ページまで読んで気づいたのですが、奇数ページの左上に章とみだしの文章があり、延々と「ざんねん」が表示されています。その「ざんねん」もカウントに加えることにしました)
読み終えた結果です。「ざんねん」とか「残念」という単語が本のカバーと本文に132回ありました。また、奇数ページの左上の表示に109回ありました。合計で241回です。『ためいき』を抜きました。だからなんということもないのですが。「ざんねん」は目にすると気持ちが沈む単語ですから、ちょっと多すぎるかなと感じました。
「大告白」とあるから内情暴露です。
暴露して、対策を提示するのでしょう。
この本は何を目指しているのかを考えながら読みます。
「ざんねんじゃない状態」は、どんなものなのか。
現実には、100%改善・改革できることはなかなかありません。
世の中は、グレーゾーン(灰色)で調和をとっています。
モデルとなる教師像があるのだろうか。
だれなのかわかるとまずいんじゃないのか。
ページをめくりながらふと思う。
現実社会では、民間事業者や依頼する立場の人間を見下す学校の先生がいます。
先生は、いばっています。
民間事業者等より、教職のほうが、立場が上だといばっています。
民間事業者等は、頼むほうの立場なので、ぺこぺこするしかありません。
先生も変だけど、親も変らしい。
学校は人生においては、通過点でしかない。
早く通過したい。こどもの心身が病気にならないようにして、無事に卒業させてほしい。
こどもは、長時間イスに座って、じっとして、理解できない話を聞かされて、とても苦痛です。
昔からずーっとそうでした。
身体を拘束(こうそく)されての授業はとても苦痛です。
公務員を目指す動機が『安定しているから』だけの人は、公務員にならないでほしい。
そういう人は選考時に、はじいてほしい。
教職者は、大学を出て、会社勤めをしたことがないから、組織で働く人間の苦労を体験していない。社会人といえるようでそうでもない。
後半には、スポーツが強い学校のことが書いてあるようです。
強豪校は、学校をPRするために、スポーツ活動を推進します。
「あとがき」を読みました。
著者がメモ魔であることが書いてあります。(わたしも同様です)
饒舌です。(じょうぜつ:おしゃべり多い)
自慢もあるし、読んだ人が嫌悪感をもつかも。
まあ、読んでみます。
(2回目の本読み)
モンペ:モンスターペアレント(筋の通らない要求や苦情を繰り返すしつこい親)の略語。
学校でトラブルがあったとしても、卒業までの一時的な事柄なので、がまんして、時間が経過するのを待つということはあります。生徒も先生も一時的な出会いです。
それではいけないと著者は主張します。
自分は、学校は『人間』を学ぶ場所だと考えています。
先生も児童・生徒も人間的に100%いい人はいません。
『残業』のことが書いてあります。
不思議です。
一般サラリーマンは、早朝から満員電車に揺られて出勤して、夜遅くに帰宅して、また翌朝早く出勤して、土日の休みは死んだように眠っているということの繰り返しの毎日です。出世したかったら長時間労働は当たり前です。
教師には、業務としての金銭的な達成目標はありません。いわゆるノルマ(お金の獲得目標値)はありません。
自分で労働時間内の行動の割り振りを自由にできる裁量もありそうです。
自費で自分の時間で仕事の勉強をしている労働者はいくらでもいます。
『居残り給食』食べ残しを許さない。
自分は体験したことがあります。
ぬるぬるするワカメがにがてで、どうしてもみそ汁のなかのワカメがのどを通ってくれませんでした。
小学校低学年の時に、同じくワカメがにがてなクラスメートとふたりで、給食時間が終わったあとも、黒板の前に横に並んで正座させられて、飲めないワカメのみそ汁を飲もうとしていました。
結局、飲めませんでした。掃除の時間が始まって、まわりにいる児童たちは、ぞうきんがけなどの掃除をしていて、泣けて来たのを覚えています。
もう半世紀以上もたったのに、まだ覚えているということは、そのときのショックが脳みそのどこかに残っているのでしょう。
授業中にこどもにビンタをする先生は何人か見ました。
案外、女性の教師がそういうことをしていました。言うことをきかなければ、たたかれるのです。
生徒をげんこつでなぐる男性教師もいました。
感情的な暴力でした。
合法的な、児童、生徒に対する虐待です。
髪の長い女子中学生が、男性教師に長い髪をつかまれて、円盤投げのときのように、教師がコンパスの中心に位置して、女生徒がぐるぐる回されていたのを遠めに見たことがあります。
半世紀以上前は、親も文句を言わない時代でした。こどもは、家では親兄弟に叩かれて、学校では先生や先輩や級友に叩かれて、ときには、生意気な下級生にも叩かれて、それでもそれが普通の時代でした。人にもまれながら、強くたくましく、図太く(ずぶとく)生きることを学びました。
アナフィラキシー:アレルギー反応による症状。
社会では、頭が良くても、自分の思いどおりにならないと、机を叩いたり、イスを蹴ったりする人がいます。凶暴です。自分で自分の感情と言動をコントロールすることができないようです。
本に書いてある文章は饒舌です。(じょうぜつ。言葉数が多い)
文章量を減らしたほうが読みやすくわかりやすい。
ときに、感情的な勢いがあります。
「ざんねんな教師」に対する対応を求めておられます。
公務員である教職員は身分保障が手厚いので、なかなか解雇処分はできないでしょう。
反故(ほご):なかったことにする。
鉄棒で、さかあがりができてもできなくても、人間は生きていけるということはあります。
(つづく)
たまたま同時進行で読んでいる『こんな人いるよねぇ~ つぶやきシロー 自由国民社』つぶやきシローさんが出版社に与えられた本の読書感想メモを書いてある本なのですが、こちらの本と似たようなタイトルの本が紹介されています。『残念な教員 学校教育の失敗学 林純次 光文社』
ネットで、その本と今読んでいるこの本の感想を読みました。賛否両論あります。まあ、そうなるような内容です。関係者が読んだら、腹を立てる人もいるでしょう。予想どおりの感想でしょう。
本にいろいろ書いてありますが、教員とか教育関係の組織の人って、性的趣向がどうかと思うようなニュースをときおり目にします。
盗撮とか、SNS出会い系交際アプリサイトでこどもをだますとか、ストーカーになるとか、脳みその中はだいじょうぶだろうかと心配します。この本では、ロリコンのことが書いてあります。幼児趣味の性癖です。エロ教師では、学校にこどもを預ける親は心配になります。
信頼関係がないと、どこの世界でもうまくいきません。
性癖で変な人を教員に採用しないでほしいし、変なことをした人は二度と採用しないでほしい。いくら制裁を与えても直らない病気です。なのに、本では、再度採用されることが書いてあります。残念です。不満です。不信感が湧きます。
そもそも法令では、そんな変な人が教育職に就くということを想定していないのでしょう。抜け穴があります。
上司は何もしません。関わり合いになりたくないのです。
教職の人は二重人格の人が多いという文章を以前読んだことがあります。
いい人でいなければならないということはつらいでしょう。
教師でなくても、表向きは、差別はいけないといいながら、内部ではあからさまに差別する人がいます。同様に、いじめはいけないといいながら、裏では人をいじめている人もいます。自分が加害者だという意識はありません。人間とはそういうもの。それでいいと割り切っているようです。
頭がいい人たちのいじめは陰湿です。なかなか表に出ません。
こども相手の仕事は、弱い者いじめの面があります。
親の顔色をうかがってのえいこひいきもあるでしょう。
いじめ加害者のこどもの親や親族が、地元の名士(めいし。有名人)や地元で要職に就いていて、気後れ(きおくれ)や遠慮・配慮があることもあるのでしょう。。
アイドルオタクの教師について書いてあります。
脳みその中は少年です。
見た目はおとなでも頭の中はこどものままです。
保護者には、教師からこどもを守るための選択肢の数は限られています。
異常な空間です。
42ページ付近の教師のファッション(服装)に関する批判の記述は、言い過ぎではなかろうかという感想をもちました。
著者は攻撃的です。『自分(たち)とあいつら』の世界です。
(つづく)
学校という狭い世界の奥深い話が続きます。
兵庫県で実際にあった小学校教師同士のいじめ事件のことが出ます。ボス的存在の女教師を含む4人の小学校教師が若手教師をいたぶっています。もしかしたら、一般企業や組織でもありそうなことです。だれかをいじめることで、ストレスを解消する。
職場に『村社会』があって、村長の立場のボスがいて、取り巻きの村民がいる。自分たちだけで通用するルールをつくって、掟(おきて。破ってはいけないこと)で被害者を縛る。(しばる)
昔だったら、いじめの被害者は、泣き寝入りで終わることが多かった。現代は、動画配信の時代です。加害者の動きも言葉も記録されて外に発信できます。
先生は、人間を評価する人たちです。
人間を評価することが仕事です。
評価をやめたらどうなるのだろう。
評価をやめてもいいのではないか。
社会に出て働いて食べていくうえで、学校の評価の影響や効果は小さそうです。
科目によって、できるできないは、個人それぞれの能力の違いではなかろうか。
わが子を自慢したい毒親がいます。
中学受験合格をまわりに自慢する親です。
そんな親の子どもは、ほんとうに幸せなのだろうか。
『友だち』というのは、微妙な関係です。
上下関係があったりします。
相手を見下しての友だち関係ということがあります。
たしか、恐ろしい作品がありました。乃南アサ作品でした。
読んだ時の読書メモが残っています。周囲が親友同士だと思っていたふたりが、殺人の加害者と被害者になるのです。
『殺意・鬼哭(きこく・亡霊が浮かばれないで泣く) 乃南アサ 双葉文庫』
2本の小説が1本の作品になっています。「殺意」は殺したほう、「鬼哭(きこく)」は殺されたほう、それぞれの当事者が語り続けます。珍しい形式です。
『殺意』恐ろしいお話です。世の中にこのような人間がいないと否定できません。真垣徹36才会社員は殺人刑で収監されて8年が経過しています。12年の刑ですがもうすぐ仮出所します。彼は、周囲の人間が彼の親友とみていた人物を刺殺しました。
『鬼哭(きこく・死者のすすり泣き)』真垣徹36才に刺殺された的場直弘40才のひとり語りが続きます。的場直弘が、真垣徹に刃物で刺されて意識を失うまでの3分間の思考が、178ページに渡って延々と表現されます。加害者の真垣は、被害者の的場を、自分を支配している者としてとらえていました。こちらは相手に好かれていると思っていても、相手はこちらを嫌っている。殺された的場は、殺した真垣からみて、殺される理由をもっていました。相手に忍耐をさせる関係を、親友とは呼ばないのです。
よかれと思ってやったことが、相手にとっては迷惑なことだったというのは、よくあることです。
ただ、そういうものだと思えばよいということはあります。悪意があるわけではないのですから。
1年目で実技経験のないまじめな女教師が担任になるのはハズレというような記述があります。
女教師を、一方的に教える側の人として考えるとそうなるのでしょうが、お互いとその周囲という固まりで、全体が育つように考えることが一般的です。
こどもに向かって「お前ら、バカか!」「死ねよ!」と教師が言うそうです。侮辱(ぶじょく)、脅迫、恐喝(きょうかつ)です。罰されます。ばかでもそこそこ生活していけます。だいじょうぶです。先生には、そこまで心配してもらわなくてもいいです。
64ページまで読んだところで、この本の構成を整理してみます。
まえがき
(以下「ざんねん」を頭につけて)
先生のタイプを分類してざんねんとする。
授業を科目別に分類してざんねんとする。
学校行事ごとに、その内容についてざんねんとする。
部活のクラブごとに分類してざんねんとする。
あとがき
参考文献一覧
先生の仕事は少なくとも民間企業のような『利益の追求』ではありません。
先生の仕事は、こどもの生命を守ることが最優先です。親としては、一番大事なことです。それ以上のことは望んでいません。無事に卒業証書を手にすることができればいい。
記述にありますが、教師も含めて、本を読む人は減りました。
国語はけっこうむずかしいです。
スポーツといっしょで、生まれつきの能力ということもあります。
文章を書くことはむずかしい。
Fランク大学とは何だろう?:偏差値40以下の学力底辺校とあります。初めて聞きました。Fランク大学卒の教師は、頭のいいこどもたちから、ばかにされるそうです。
『体育』は、遊びの延長、気休めの場なのか。
いろいろと指導の仕方の良しあしで、細かい分析が入ります。
読んでいて、そこまで先生にがんばってもらわなくてもいいですよと言いたくなります。
親としては、こどもにけがのないように対応していただければいいです。
勝ち負けは関係ありません。
ドッジボールの記事を読んでいたら、自分たちがこどものころはみんな貧乏で、ボールを買うお金がなくて、古新聞紙をまるめてのりで固めて、ドッジボールにしたり、野球遊びのボールにしたりして遊んでいたことを思い出しました。体に当たっても痛くないボールです。楽しかった。
ベクトル:向いている方向。
外国人英語教師はハイテンション、小学校の英語の授業はハイテンションだそうです。
ハイテンション:感情が高ぶる。
無意味にハイテンションという文脈です。
読んでいて『ひきこもり』について考えています。
ひきこもっているこどもと、通学しているこどもの学力差が、一日一日経過するごとに開いていきます。日数がたつほど、能力差は開きます。ひきこもっているこどもの脳内の世界は、いつまでたってもこどものままです。されど、本人がその気にならないとなんともいたしかたありません。
『いじめはいじめ』ではなく『いじめは犯罪』という理屈には賛成です。『犯罪は罰せられます』
いじめる人の性格は、生まれつきのもので変わらないと思ったことがあります。
いじめるほうを擁護(ようご。かばう。守る)する教職員関係者がいます。加害者を助けることで、なにか自分に利益があるのでしょう。
授業のやりかたのすべてがムダというような書き方は、授業をしている立場の人が読んだら救われない気持ちになるでしょう。
ムダだという『道徳』の授業が年間315時間あるそうです。うーむ。いろいろと考えさせられます。
運動会の練習で熱中症になるというニュース報道をよく聞きます。
無理をしないでほしい。
半世紀ぐらい前は、熱中症という症状は聞いたことがありませんでした。日射病はありました。不思議です。
ずいぶん前から、小中学校の運動会は、親抜きで開催されているような気がします。
この本では、親に見せるために運動会の練習をするという内容で書いてあることが、違和感があって、ちょっと現実味がありませんでした。
町内会の運動会なら親も子も参加しています。
運動会での組体操は、半世紀以上前の自分たちの時代は、なんの疑問も持たず、だれがやってもできることとしてやっていました。
山がくずれることがあってもけがをしたということは聞いたことがありませんでした。
時の流れで、いろいろなことが正反対に変化してきました。
体育というのは、練習をしたから1番になれるというものでもありません。
他の科目でも同じです。勉強時間が長かったから1番になれるわけではありません。
勉強ができたから仕事もできるわけでもありません。
1997年にポケモンの動画がまぶしくて、気分が悪くなるこどもがたくさん出た話が書いてあります。
そういうことがあったと思い出しました。
なにごともやりすぎてはいけないようです。
越えてはいけない一線は、越えてはいけないのです。
中国であった修学旅行生の鉄道死亡事故の記事も読んでいて思い出しました。
思えば、毎年、どこかで事故が発生して、命を落とす人がいます。
病気やけが、事件や事故、自然災害は、人生に付き物です。
どうやったら避けられるのか。まずは自分が危機管理の警戒心をもって用心する。
二分の一成人式というのは、自分に知識がありません。そういうものがあるのか。10歳でなにか儀式があるのか。何のためにするのか。わたしにはわかりません。
読んでいると、やらなくてもいいことをやっている。それが仕事とされている。
時間つぶしをすることが仕事。
『指導死』有形と無形あり。有形は、指導中の死。無形は、子の自殺。
直接は見ていませんが、中学の時、マラソンをしていて倒れて亡くなった同級生がいました。
もし、教師が強制してマラソンをさせたのなら有形なのでしょう。真相はわかりません。
高校の柔道で亡くなった先輩がいたと聞いたことがあります。これも有形なのか。指導した教師はその後も働いていました。
この本には、有形の指導死は隠蔽されやすい(いんぺい:組織を守るために真実をわざと隠す)と書いてあります。
無形というのは身の回りでは、聞いたことはありません。
無形について、本では、野球とかサッカーの部活について書いてあります。悩んでの自殺です。
指導者と合わなくて、どうにもこうにもやっていけないとなれば、部活における野球の選手もサッカーの選手も部をやめればいいのです。その代わり、高校の卒業証書は必ず手に入れたほうがいい。スポーツ推薦であったとしても授業料をちゃんと払えば退学処分にはならないと思います。人間関係において、合う合わないはあります。無理すると心が壊れます。
学校でなくても、人事権やお金の裁量権をもったリーダーが、パワハラやセクハラをやると、部下は最悪の思いをすることになります。(今のロシアの大統領に似ています)
お金のためなら何をやってもいい。お金を出しているから何でもやらせろです。めちゃくちゃです。
嫌いなリーダーに従わなければならない立場の者はつらい。
少し前に書いた『いじめは犯罪』という考え方にのっとって、パワハラ、セクハラは犯罪だから警察に通報する。権力の濫用(らんよう。基準や限度を超えて権力を行使する)をするリーダーは、たとえ外見的に合法的であったとしても、リーダーから引きずりおろして、組織から永久追放する。
マスコミに対する批判もあります。
『美談』を求めるような台本をつくって、映像と音楽で雰囲気を創作して、つくり話の情報を流して、人心を操作する。(これもまたロシアの報道スタイルに似ています)
全体を読み終えた感想です。
著者の一生懸命な気持ちはよく伝わってきました。
されど、現場が変化することは大変そうです。
学校は、一般的に、教師にとってもこどもにとっても、親にとっても、一時的な滞在地で『駅』のようなものです。
学校を経て、みんなそれぞれが、自分の生きたいところへ出発していくのです。
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