2024年10月03日
福岡県 篠栗町南蔵院大仏涅槃像(ねはんぞう。横たわっている)
福岡県 篠栗町南蔵院大仏涅槃像(ささぐりちょうなんぞういんだいぶつねはんぞう。巨大な大仏さんが横になって寝ておられます。リラックス、リラックス。心おだやかに生きるのです)
以前放映された東野&岡村の旅猿で紹介されていました。ゲストは、野生爆弾くっきーさんでした。『東野&岡村の旅猿24 プライベートでごめんなさい 福岡でくっきー!の考えたやりたい事をやろうの旅 hulu(フールー)』で観ました。
わたしたち夫婦もゆっくりお参りして、大仏さんの体内見学後、旅猿メンバーがしたように、羽子板の羽を小さな木製の升(ます)に投げました。だけどひとつも入りませんでした。とてもむずかしい。
見学者は、東南アジア系の人が多かった。家族連れとか、カップルとかです。中国、韓国、台湾の人たちではない東南アジアの国々、ベトナムとかタイとか、ミヤンマーとかネパールの人たちに見えました。
ひざまずいて、真剣にお祈りをされている若い女性(おそらく外国人)がいて、見ていて、う~むと感じ入るものがありました。
叱られるかもしれませんが、わたしは、自分を救ってくれる神さまとか仏さまというのは、自分の脳みその中(心の中)にあって、自分の心のなかにいる神さまに向かって、自分は目標に向かってベストを尽くしますからお助けくださいと祈願して、そのあと、やるぞーーと前向きに突進していくものだと思っています。
ゆえに、仏像とか、建物とか、紙に何かが書いてあるものに向かって、真剣に祈る気持ちにはなれません。
それらは、木であり、紙であり、建築物であり、構築物なのです。美術品とか、工芸品ではあるけれど、そこに魂(たましい)とか、霊感なんぞは、宿って(やどって)いないのです。そう思うのは、錯覚です。さっかく:思い違い。
わたしは、長い間生きてきて、そう悟ったのです。(さとった。理解できた)。
本当は、この世には、神も仏もいないのです。わたしはこれまでに、神も仏も見たことはありません。見たことがないものを信じることはできません。あえていうなら、自分自身の心が神であり仏なのです。
(今読んでいる本が、『赤と青のガウン オックスフォード留学記 彬子女王(あきこじょうおう。大正天皇のひ孫。ヒゲの殿下の第一女子) PHP文庫』で、たまたまなのですが、104ページに、「(英国人の考え方として)日本人にとってはお寺で拝む(おがむ)ものであるはずの仏像が、なぜ美術館(英国では大英博物館)に飾られるのか」と記述があり、共感しました)
仏像の前にある広場が工事中でした。
怖い(こわい)お人もおられました。
小鬼(こおに)のような、かわいいぼくちゃんもいました。
最寄り駅のJRの福北ゆたか線(ふくほくゆたかせん。篠栗線)『城戸南蔵院駅(きどなんぞういんえき)』で、ホームのベンチに座って列車が来るのを待ちます。人影は少ない。
見えるのは山で、反対側は谷です。木々の緑がたくさんあります。静かです。時間が止まったような感覚に陥ります。せかせかと暮らすことが意味のないことに思えてきます。競争社会にサヨウナラです。
先日見たテレビ番組で、東京から田舎(いなか)へ移住された方へのインタビューとコメントがありました。
東京と田舎の朝はまったく違うそうです。
田舎の朝は、野鳥たちのさえずりで目が覚めるそうです。そこがとても気に入ったとお話をされていました。
以前放映された東野&岡村の旅猿で紹介されていました。ゲストは、野生爆弾くっきーさんでした。『東野&岡村の旅猿24 プライベートでごめんなさい 福岡でくっきー!の考えたやりたい事をやろうの旅 hulu(フールー)』で観ました。
わたしたち夫婦もゆっくりお参りして、大仏さんの体内見学後、旅猿メンバーがしたように、羽子板の羽を小さな木製の升(ます)に投げました。だけどひとつも入りませんでした。とてもむずかしい。
見学者は、東南アジア系の人が多かった。家族連れとか、カップルとかです。中国、韓国、台湾の人たちではない東南アジアの国々、ベトナムとかタイとか、ミヤンマーとかネパールの人たちに見えました。
ひざまずいて、真剣にお祈りをされている若い女性(おそらく外国人)がいて、見ていて、う~むと感じ入るものがありました。
叱られるかもしれませんが、わたしは、自分を救ってくれる神さまとか仏さまというのは、自分の脳みその中(心の中)にあって、自分の心のなかにいる神さまに向かって、自分は目標に向かってベストを尽くしますからお助けくださいと祈願して、そのあと、やるぞーーと前向きに突進していくものだと思っています。
ゆえに、仏像とか、建物とか、紙に何かが書いてあるものに向かって、真剣に祈る気持ちにはなれません。
それらは、木であり、紙であり、建築物であり、構築物なのです。美術品とか、工芸品ではあるけれど、そこに魂(たましい)とか、霊感なんぞは、宿って(やどって)いないのです。そう思うのは、錯覚です。さっかく:思い違い。
わたしは、長い間生きてきて、そう悟ったのです。(さとった。理解できた)。
本当は、この世には、神も仏もいないのです。わたしはこれまでに、神も仏も見たことはありません。見たことがないものを信じることはできません。あえていうなら、自分自身の心が神であり仏なのです。
(今読んでいる本が、『赤と青のガウン オックスフォード留学記 彬子女王(あきこじょうおう。大正天皇のひ孫。ヒゲの殿下の第一女子) PHP文庫』で、たまたまなのですが、104ページに、「(英国人の考え方として)日本人にとってはお寺で拝む(おがむ)ものであるはずの仏像が、なぜ美術館(英国では大英博物館)に飾られるのか」と記述があり、共感しました)
仏像の前にある広場が工事中でした。
怖い(こわい)お人もおられました。
小鬼(こおに)のような、かわいいぼくちゃんもいました。
最寄り駅のJRの福北ゆたか線(ふくほくゆたかせん。篠栗線)『城戸南蔵院駅(きどなんぞういんえき)』で、ホームのベンチに座って列車が来るのを待ちます。人影は少ない。
見えるのは山で、反対側は谷です。木々の緑がたくさんあります。静かです。時間が止まったような感覚に陥ります。せかせかと暮らすことが意味のないことに思えてきます。競争社会にサヨウナラです。
先日見たテレビ番組で、東京から田舎(いなか)へ移住された方へのインタビューとコメントがありました。
東京と田舎の朝はまったく違うそうです。
田舎の朝は、野鳥たちのさえずりで目が覚めるそうです。そこがとても気に入ったとお話をされていました。
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