2024年05月06日
海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞
海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞 田沢五月・文 国土社
本に、A4ぐらいの大きさの新聞縮小版がはさんであったので、最初に読もうかと思いましたが、内容が、令和5年(2023年)となっていたので、本を読んだあとで新聞を読んだほうがいいと思い、後回しにしました。
まず全体のページを最初から最後までめくってみました。
東日本大震災が素材です。2011年3月11日金曜日午後2時46分発災です。平成23年でした。もうずいぶん前のことになりました。日本ではその後、熊本地震、能登半島地震が起きました。いつになるかわかりませんが、また、どこかで大きな地震は起きると思います。
本の中の場所として、『岩手県山田町』が出てきます。北にある宮古市と南にある釜石市の間に位置しています。
岩手県の県庁所在地である盛岡市の東南、海岸沿いの町で、南には、ニュースでときおり耳にする大槌町(おおつちちょう)があります。
山田町内の鉄道駅として、三陸鉄道リアス線で、久慈(くじ駅。久慈市)から盛(さかり駅。大船渡市)までの路線の途中に、『陸中山田』という駅があります。
東日本大震災が起きて何日かして、山田町から愛知県内に避難してきたという人を見たことがあります。わたしはそれまで、岩手県に山田町があるということすら知りませんでした。そして、ずいぶん遠くから愛知県まで避難して来られたものだと驚きました。
そのとき気づいたのですが、避難者のご家族というのは、ずっと同じところにいるわけではなくて、どこにいても一時的な滞在地で、短期間でよそへ移動されていきます。安住の地を見つけるのには時間がかかります。
この本の趣旨はなんだろう。『海よ光れ!』というのは、どういう意味なのだろう。今はわかりません。
学校新聞の話らしい。
この本のつくりは、相手にインタビューをして、聞き取ったことを文章にしてあるようです。
(わたしは、本を読みながら本の感想をつぎ足して文章を仕上げていく人です)
(1回目の本読み。最初のページから最後のページまでゆっくりめくってみる)
山田町:漁業の町。山田湾がある。カキやホタテの養殖をしている。
大沢地区という集落の話をするらしい。
被災後の白黒写真があります。凄惨です。(せいさん:むごたらしいようす。目をそむけたい)。家が津波で海水に水没しています。
文章にリズム感があります。音楽のようです。
明治29年6月15日(1896年)に地震があった。大津波が起きた。(この年の8月27日には、岩手県花巻市で、童話作家の宮沢賢治が誕生しています。37歳没。この本を読んでいた時に、邦画『銀河鉄道の父』を動画配信サービスで観ました)
自分の記憶では、明治27年が、日清戦争です。1894年でした。10年後の明治37年が、日露戦争でした。1904年でした。東北で大きな地震があったのは、1896年です。『1896年明治三陸津波』というそうです。ということは、2011年から数えて、また115年ぐらいたったら大津波が起きるほどの地震が発生すると考えてしまいます。
本の内容は、学校という狭い世界、狭い箱の中の空間の話です。
自然災害は戦争ではありません。人為的なことではないので、防ぎようがありません。地震や津波の発生を人間は止められません。
写真には、『がんばろう』の文字が並びます。だけど、『がんばろう』だけでは、息が詰まるということもあります。『リラックス』も必要です。
被災者のつらさは、被災した人間にしか出来事を実感できないということはあります。これからどうしようという絶望感があるとお察しします。
テレビや新聞でニュースを聞いた人は、たいていは、募金をしたり、現地の特産物を買ったりすることぐらいしか応援できません。
こどもは、いつまでもこどもでいるわけではありません。
文字を読むことはたいへんなことです。
新聞をすみからすみまで読む人は少ない。
新聞は、書いた人、作った人がいちばん内容を理解しているということはあります。
新聞をつくるという行為で、沈んでいた気持ちが救われるということはあると思います。
功績がある内容でも、仕事でやったからということはあります。
生活していくためにはお金が必要です。お金を手に入れるために仕事をすることが基本です。
社会生活は複雑ですからいろいろあります。
(2回目の本読み)
『はじめに』があって、小さな項目が1から13まであって、『おわりに』があって、『出版記念「海よ光れ」号外』があって、『あとがき』があります。本に別紙で付いている号外と本の150ページにある号外は同じものでした。
山田湾をはさんでいるのが、『重茂半島(おもえはんとう)』と『船越半島(ふなこしはんとう)』です。
力強い雰囲気で書かれた文章が続きます。
山田湾には、『大島』と『小島』があって、江戸時代には、大島にオランダ船が立ち寄ったそうです。
以前読んだ本に、ペリーが来航したとき、江戸幕府は、そのときはじめて外国から開国を迫られたわけではなくて、何年も前から、複数の国に開国を迫られて断っていたと書いてありました。外国はまずは、日本と貿易をしてお金を稼ぎたかった。
山田町の夏のイベント:魚賀波間神社(ながはまじんじゃ)のお祭り。おみこしがある。踊りとして、『神楽(かぐら)』、『虎舞(とらまい)。「大沢虎舞」と書いてあります。地元に保存会があって、小学校の運動会で披露しているそうです』、『獅子踊り(ししおどり)』がある。(東北らしいと思いました。以前読んだ本に、小学生の舞(まい)のことが書いてありました。『ふたりのえびす 高森美由紀 フレーベル館』 そちらは、舞台は青森県八戸あたり(はちのへあたり)、小学校5年1組の(郷土芸能であるらしき)地元の歌舞伎みたいなお祭り演技に小学生が挑戦します。えびす舞(まい):縁起がよくなりますように。豊作でありますように。無事祈願でしょう)
2011年3月11日東日本大震災が発災して、大津波が押し寄せた。山田町立大沢小学校に、おおぜいの人たちが避難した。
1 全校表現劇『海よ光れ』(悠太くん(5年生。福士悠太さん))
ここで、タイトルの“海よ光れ”が、劇であることがわかりました。
でも、書いてあるのは、東日本大震災が起きる一年前の時点です。どうしてだろう。
1年生から6年生まで全員で、『海よ光れ』という劇を演じるそうです。毎年その劇を上演するそうです。昭和63年(1988年)に脚本ができたそうです。大沢小学校に勤務していた箱石敏巳先生と、地元の劇団きたかぜ代表の藤原博行さんでつくったそうです。
祖父が孫に大沢地区に関する昔話をするストーリーだそうです。捕鯨の話、イカ漁の話、そして、明治と昭和に津波があった話だそうです。(明治はわかりましたが、昭和にもあったのか)
自然災害の発生に関する伝承があります。気をつけろ。また津波が来るぞです。
小学生たちが組み合って、津波の波を体で表現するそうです。潮のうねりがあるのでしょう。
(津波から子孫が身を守ることを示唆するための演劇なのだろうか。しさ:暗に教える。暗示する)
昭和の津波
昭和8年3月3日(1933年)昭和三陸地震津波。岩手県内の死者1408人(知りませんでした)
昭和35年5月24日(1960年)チリ地震の影響による津波。岩手県内の死者55人。(なんとなく、昔聞いたことがあります)
明治の津波
明治29年6月15日(1896年)明治三陸地震津波。岩手県内の死者18158人。うち、山田町で亡くなった人の数は、2984人だそうです。
劇は日本の宗教っぽい。
明神様(みょうじんさま。威厳と徳のある神)
登場する人の数が増えてきたので整理が必要です。
演劇の劇中の人物(役柄)として:よっぱらいの辰治郎じいさん(たつじろうじいさん)、校長先生、船頭)
福士悠太:大沢小学校5年生。お父さんは消防署員。大学と高校に進学する姉がいる。
古久保優希菜:5年生。背が高い。バスケットボールがじょうず。海の子児童会執行部員。なお、悠太も同じく海の子児童会執行部員をしている。4年生の時に内陸部の小学校から転校してきた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団に入った。
中村奈緒:6年生。児童会長。村人役を演じた。学校新聞『海よ光れ』の編集長をしている。
箱石佑太(はこいし・ゆうた):6年生。老人役を演じた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団員。
武藤愛(ぶとう・あい):6年生。ナレーターをつとめた。
大川海渡(おおかわ・かいと):6年生。ふたごの兄。大沢スポーツ少年団員。悠太も同じく大沢スポーツ少年団員である。ケガをして松葉杖をついている。
大川海成(おおかわ・かいせい):6年生。ふたごの弟。大沢スポーツ少年団員。鼻たれ坊主のこども役だった。
佐藤はるみ先生:新聞製作の担当。
この演劇は、東日本大震災の一年前に演じられています。
翌年、津波に被災したということは、そこに住んでいた人たちがどこかへ避難したということです。避難したということは、そこにあったコミュニティ(地域社会の集まり。集落)が消えたということです。読んでいて気になりました。本のページをずーっとめくっていきました。
143ページに、『大沢小学校は本年度で閉校になるため、これが最後の「海よ光れ」になります』と書いてありました。せつないものがあります。2019年(令和元年)秋のことでした。演劇での津波のシーンは、心が傷つく人がいるからやらないそうです。震災の翌年からずーっと、津波のシーンはやらなかったそうです。最後の演劇でもやりませんでした。
2 もう一つの「海よ光れ」(悠太くん)
小学校の学校新聞があります。全校表現劇(演劇)と同じ名称が付いています。
『海よ光れ』です。岩手県で新聞コンクールがあるようで、毎年いい成績をあげているそうです。
2010年3月には、全国大会で、『内閣総理大臣賞』を受賞しているそうです。たいしたものです。東日本大震災の前年です。
新聞の第73号:文化祭での学習発表会に合わせた特別号。2011年のことです。地震はまだ起きていません。担当は、佐藤はるみ先生でした。当時小学生のこどもさんがいたそうです。ベテラン教師です。
フライ旗(ふらいき):大漁旗(たいりょうばた)
できあがった学校新聞を、劇が始まる前に、水産会社の人、植木屋の人に渡します。いろいろお世話になっているそうです。
全校新聞である、『海よ光れ』以外に、一年生から、個人新聞をつくっているそうです。大沢小学校は、新聞づくりに熱心です。
29ページの新聞4枚は、文字が小さいので、老眼のわたしには読めません。
レタリング:手書きの文字。
なんというか、おとなの世界だと、仕事は、利潤の追求が目的です。(お金もうけ)
学校新聞づくりは、利潤の追求ではありません。
お金のことを考えなくてすむということは、自由な発想でつくれるということです。
3 楽しかった東京(優樹菜さん)
震災直前のことです。2011年3月5日、5年生の古久保優樹菜さんが東京へ行きました。
大久保裕明校長と佐藤はるみ先生と東北新幹線に乗りました。学校新聞の表彰式に参加するためでした。
これからは、卒業する6年生のあとを継いで、今の5年生のメンバーが中心になって、学校新聞『海よ光れ』の第78号をつくります。
大津波の発生の日が近づいています。
4 大津波(奈緒さん(児童会長6年生中村奈緒さん))
東京から岩手県山田町に帰ってきた6日後に被災されたそうです。
マグニチュード9.0(とても大きい)。巨大地震の発生です。
2011年(平成23年)3月11日午後2時46分のことでした。
しばらくして、大津波警報が発令されました。
大沢小学校は、標高が高い位置に建っていたので津波はそこまで届かない位置だったそうです。土地の人たちの避難所になったそうです。
逆に海に近いところに住んでいたこどもたちは家に帰れなくなりました。親にも会えないこどももいたそうです。
高橋信之副校長が安全を呼びかけて保護者をコントロールします。その後、大久保校長も小学校に駆けつけます。
まるで、災害パニック映画のような光景が、目の前で現実に繰り広げられます。大きな津波が、海に設置されている防潮堤を超えて、人間が住む住宅地へなだれこんできます。津波火災も発生します。乗用車もトラックも津波に流されています。救急車は呼べません。携帯電話もつながりません。
足りないものとして、薬、タオル、石油ストーブ、灯油、米、食料、ラジオ、トイレットペーパーなど。
生徒は全員が無事だったそうです。
小学校への避難者は、500人ぐらい。
東北の三月ですから屋外はまだ寒い。
『自助(じじょ。ほかに共助(近隣住民)と公助(役所の援助)があります)』が始まります。
とりあえず、自分や自分たちのことは、自分や自分たちでやるのです。
沖だし:中村奈緒さんのお父さんは漁師だったので、船を守るために船を沖に出しに行ったそうです。(なんだか、津波が来る中、津波に向かっていくわけで、恐そうです(こわそうです)。実際波に飲み込まれた人もいたようです)。お父さんは無事でした。
5 目を覚ませ、大沢の子(はるみ先生(佐藤はるみ先生))
避難所になった小学校には先生たちがいました。先生たちはこどもたちのめんどうをみます。
被災の翌朝(3月12日)、朝6時半に起きて、コイの池に流れ込んでいる沢水(湧き水)で顔を洗います。顔を洗ったらランニングです。ゆっくりランニングをしながら先生はこどもたちのつらい気持ちを聞きます。
6 ぼくらにできること(海渡くん(かいとくん。6年生大川海渡さん。ふた子の兄。将来は漁師になりたい)
近所のおばさんたちがつくってくれたおにぎりとおみそ汁を飲む。
避難所は孤立状態にあったので、助けがくるのを待ちます。
女の子たちは、トイレ掃除を始めました。災害で困るのは、トイレです。水がありません。男子は、コイの池から水を運びます。
おばさんたちは、ご飯をつくります。みんなで協力します。
大川ヒメ子さんは、こどもたちがつくった『がんばろう』のポスターに心が励まされました。
大川海渡さんのお母さんのお父さんは亡くなり、お母さんのおばあさんとおじさんは行方不明だそうです。
7 肩もみ隊出動!(雅みやびさん(6年生女子 福士雅さん)
お年寄りの肩を一年生から四年生のこどもたちでもんであげます。
お年寄りから昔ばなしを聞きます。
昭和8年(1933年)に三陸津波を体験されたそうです。
福士雅さんのご自宅は浸水で住めなくなったそうです。
役場職員さん道又城さん(みちまたじょうさん)は、役場は浸水した。周囲は火の海になった。津波の翌日に大沢地区を訪れた。こどもたちがしっかり動いていたそうです。
8 支援の手(悠太くん(福士悠太さん))
震災・大津波から三日後、航空自衛隊山田分屯基地(ぶんとんきち)の自衛隊員の人たちが救助・救援に来てくれました。孤立状態の解除です。
食料不足、着替えなし、お風呂なしでした。
校長の提案で、避難所で、『朝のあいさつ』の時間が始まる。
災害で亡くなった方に黙とうをささげて、困難を乗り越えていきましょうと声をだす。
お祭りのときにこどもたちが舞うのが、『差餌鳥舞(さしとりまい)』だそうです。また、お祭りで神楽(かぐら)の踊り手を見たい。平和な日が恋しい。
全国から支援の手が届き始めます。自衛隊員、医療チーム、警察官も全国から駆けつけます。
3月17日が、小学校の登校日だった。ひさしぶりに顔をみるこどももいた。
福士悠太さんは、『ありがとう』の感謝を伝えるために、学校新聞をつくりたいと思った。
85ページまで読んできて、親世代とこども世代の意識の違いについて考えました。
親世代がこどもだったころ、水道はなかったような気がします。
なにもかもが生まれたときからそろっている現代のこどもさんにはわからない世界です。不便な生活を体験したことがある親や祖父母の世代は、物がなかった時代に生きたことがあるので、いざ災害時には力を発揮するということはあります。
昔、水道がなかったことを熊太郎が文章にしたことがあります。データを探したら出てきたので、ここに落としてみます。
『水道がない』
(1967年)昭和四十二年までのわたしの体験で、水道が自宅になかったのは、茨城県、福岡県、熊本県に住んだときでした。(父親に放浪癖があって、短気だったこともあり、仕事場で上司や同僚とケンカして仕事を辞めてばかりいたので転校を何回も体験しました。景気のいい時代だったので、どこに行っても仕事が見つかりました)
1 茨城県
小学校には水道がありました。
冬が近づいてくると先生から水道の水は少しの量を出しっぱなしにしておくようにと教えられました。
そうしないと、水道がこおってしまうということでした。
自宅がある集落には、手押し式のポンプの井戸がたくさんありました。
奥さんたちの井戸端会議という言葉はここからきたのですね。
井戸端会議という言葉も今では死語(しご)になってしまいました。
おふろは銭湯(せんとう)のような大きな共同風呂がありましたが、無料でした。
茨城県と福島県の県境に近い太平洋側のところで炭鉱でした。
炭鉱労働者用の風呂で、家族は無料でした。
2 福岡県
ここには井戸はありませんでした。
自宅の台所に水をためるコンクリート製のかめがありました。
水はどうするかというと、バケツを持って近くの山道を少し登り、湧き水が流れているので、それをくんできて、かめに貯めて使っていました。
集落の中に、小さな共同風呂がありました。
風呂当番というのがあって、毎日各世帯もちまわりで、風呂をわかす仕事を奥さんたちがしていました。
夕方4時ころから夜中まで、奥さんたちは自宅とお風呂との間を行ったり来たりしていました。
トイレは、屋外にあって共同でした。
小学校に水洗トイレができたとき、朝礼で先生からその使い方を習いました。
わたしは、学校からの帰り道にのどがかわくと、田んぼのあぜ道の横を流れている用水路の水を飲んでいました。
そんなわけで、わたしと弟は、学校のギョウチュウ検査などで、時々ひっかかりました。
3 熊本県
熊本県内で何回か引っ越しをしたので、順番に書くと、最初の場所では、集落に水道が1本だけあったことを覚えています。
集落に住んでいる人たちみんなで、その1本の水道を使用していたのではないかと思います。
その地区では、わたしは自分が毎日入浴をしていたという記憶がありません。
父親の会社の社員用の風呂に入ったという記憶が1回だけあります。
毎月、父の給料が支給されると、家族4人そろって路線バスに乗って、近くの温泉に入りにいっていたことはよく覚えています。
次に住んだところでは、山からわき出る清水(しみず)を樋(とい)を使って、台所に引き込んで使用していました。
そこは農村で、おおかたの家には、つるべ式の井戸がありましたが、わたしの家の井戸は、自宅から山道を1分ぐらい歩いたところにありました。
井戸の底には、魚が何匹かいて、その魚が死んで浮かんできたら、その水は汚染(おせん)されているからのんじゃいけないということなのかなと今は考えます。
その家にお風呂(ふろ)があったのかどうか記憶がありません。
近所の家に、何回か風呂に入りに行ったことがあります。
それらはみな五右衛門風呂(ごえもんぶろ)と呼ばれるもので、火傷(やけど)しないように、足の裏で板を踏みながら入るもので、こわかったことをおぼえています。
洗濯は、川でしていました。
近所の奥さんたちが、せんたく物とせんたく板をもって集まって、川まで行ってせんたくをしていました。
せんたくが終わるまでの間、わたしは、竹がいっぱい生えていたので、笹舟(ささぶね)をたくさんつくって川に流して遊んでいました。わたしが、小学校1年生ぐらいのときのお話です。
わたしは、小学校で習った一寸法師(いっすんぼうし)とか、桃太郎とかの話は、本当のことだろうと、その当時は思っていました。
本にはさんである学校新聞の縮小版を読んでみます。
『海よ光れ』号外となっています。発行の日付は、令和5年(2023年)です。大沢小学校は、1876年開校(昭和51年)、2020年閉校(令和2年)となっています。寄稿者は、この本にでてくる当時小学5年生、6年生だったメンバーです。みなさんおとなになっています。23歳とか24歳です。
しっかりした手書きの文章です。みなさん、がんばられました。
福士悠太さん(役場職員)、福士雅さん(ふくし・みやびさん 看護師)、古久保優樹菜さん(大学生でバスケットボールをしている)、大川海渡さん(漁師)、中村奈緒さん(航空自衛官)、武藤愛さん(実家の食料品店経営)、箱石佑太さん(職業は書いてありませんが、被災時の思い出話が書いてあります)、大川海成さん(警察官)
当時の思い出とか、コロナ禍のこと、未来は何が起きるかわからないこと、震災・津波から10年少し経って思うことなどが書いてあります。月日がたつのは早いものですが、それぞれご苦労があったとお察しします。
9 卒業式(海成くん。大川海成くん6年生)
項目はまだ9ですが、全ページを読み終えました。(読みながら感想をつぎ足しています)
最後の先生の手記を読んで、この本のつくりを観察して、本の内容は、意図的につくってある美談ではないという仕切りに好感をもちました。
生身の人間、東北弁をお互いにしゃべりながらの気持ちの交流があります。書籍化するにあたっての葛藤(かっとう。本当の本にしていいのか。書かれているおとなになっているこどもたちにマイナスの影響があるのではないか)がありました。関係者のみなさんの了解を得てできあがっている本です。
さて、項目9からの感想メモです。
各個人の話になります。
大川海成くん、6年生、ふたごの弟さんのほうです。全校表現劇、『海よ光れ!』では、鼻たれ坊主のこぞうを演じました。津波のあとは、小学校に泊まって、その後は、親戚の家でお世話になっているそうです。
6年生の卒業式は、津波の影響で、3月25日に延期になったそうです。
卒業式に出席した6年生は29人です。29人が6年生全員だそうです。少ない数ですね。
親にとってみれば、こどもというものは、生きていてくれればそれでいいのです。勉強ができなくてもいいし、運動ができなくてもいいのです。親が、小学校の先生に一番望むことは、生きて卒業させてくださいということなのです。
10 2101通の手紙(愛さん。武藤愛さん6年生)
学校新聞、『海よ光れ!』の第78号をつくる。つくるメンバーは、6年生の武藤愛さん、大川海渡くん、大川海成くん、5年生の福士悠太くんの4人です。
学校新聞が全国大会で表彰されたことがきっかけになって、全国から被災地の大川小学校のメンバーを励ます手紙が新聞社を仲介にして届きます。津波災害が発生した当初、大川小学校の児童の安否がわからなかったそうです。
2101通ものたくさんの応援手紙が届きました。
11 学校新聞 第78号 『大沢の海よ光れ!』(悠太くん。福士悠太くん。進級して6年生)
第78号の学校新聞、『海よ光れ!』が発行されました。つくっている最中の4月7日にも大きな地震があったそうです。たいへんです。
まだ、150人の人たちが小学校で避難所生活を送っているそうです。
12 新聞にこめる思い(優樹菜さん。進級して6年生。古久保優樹菜さん)
4月20日が大沢小学校の入学式です。震災後、入学式が遅れていました。新一年生は11人です。全校生徒の数は91人です。少ないです。
5月11日:学校新聞、『海よ光れ』第79号が完成しました。
お弁当給食だったのが、給食が実施されたそうです。避難所で避難している人たちがつくってくれたそうです。
こどもたちを午前中で下校させても、家でお昼の準備をできる家庭が少なかったそうです。
こどもたちはずっと、トイレ掃除とお年寄りの肩もみを続けています。
5月31日:学校新聞、『海よ光れ』第80号が発行されました。
避難所のお年寄りへの感謝があります。こどもたちのために、ぞうきんを縫ったり、畑を耕したり草取りをしてくれたりしたそうです。
13 思いがけないこと(悠太くん。福士悠太くん。6年生)
学校新聞は、第81号、第82号と発行を重ねていきました。
三陸鉄道の、『陸中山田駅』のことが書いてあります。
先日、NHK土曜夜の番組、『プロジェクトX(エックス)』で、被災当時のことが放送されていました。三陸鉄道の沿線では津波で線路や駅や橋脚が流されて、一時は廃線しかないという状況もあったそうですが、みなさん努力されて、三陸鉄道を奇跡が起こるように復活させておられます。人間の力って、すごいなあと思いました。
全校表現劇、『海よ光れ』は、23年間続いてきた大沢小学校の伝統行事でしたが、震災の年の上演はありませんでした。中止です。運動会もなし。大沢虎舞(おおさわとらまい)もありませんでした。
学校新聞、『海よ光れ』第85号が発行されました。
大沢の町が少しずつ復興に向かっていることがわかります。
町の復興ベスト5です。
1位 店が再開した。(お買い物ができます) 2位 ガレキが片付けられた。(町がきれいになりました) 3位 漁船が増えた。(大沢は、漁業の町なのでしょう) 4位 仮設や建物が建ってきた。(新たな市街地の形成です) 5位 道路が直った。(道路は、人間の血管のようなものです。物流が回復します)
小学校の復興ベスト5です。
1位 校庭が使えるようになった。(校庭が使えない小学校はつらい。遊び場がありません) 2位 学校が避難所ではなくなった。(避難者がちゃんと住むところができたということです) 3位 図書館が利用できるようになった。(本読みは、心の支えのために大切です) 4位 (支援)物資がなくなった。(支援の手が少なくなったということはいいことなのです。自活できるようになった) 5位 転校してきた子どもたちが戻ってきた。(同じ土地で育った仲間です)
2012年(平成24年)1月31日発行の、『海よ光れ』第88号
来年度児童会執行部選挙特集だった。
福士悠太くんたち6年生は、3月で小学校を卒業します。
時間の流れは早いものです。
佐藤はるみ先生が、学校新聞、『海よ光れ』が、全国新聞コンクールで、内閣総理大臣賞を受賞したことを教えてくれます。
2月21日、6年生だけで、『海よ光れ』の劇を披露しました。
あきらめていた修学旅行にも行けました。
盛岡市での福祉大会で、『大沢虎舞』を披露できました。
『終わりに』
2019年秋(令和元年)に筆者の田沢五月さんが、多田敢校長(ただ・つよしこうちょう)に話をして、全校表現劇、『海よ光れ』を観劇されたそうです。
大沢小学校は、その年の年度で閉校になったそうです。大沢小学校の143年の歴史が閉じました。
学校新聞、『海よ光れ』は、新聞委員会でつくっているそうです。委員会の6年生のメンバーが、三上乃愛(みかみ・のあ)さん始め5人だったそうです。震災のときは、3歳だったそうです。
最後の新聞:『海よ光れ』第175号です。コロナ禍が始まる頃でもありました。
2023年(令和5年):出版記念号外、『海よ光れ』発行。23歳、24歳になった昔のメンバーが、号外を発行しました。みなさん故郷や社会に貢献されています。町役場職員、警察官、看護師、漁師、町の商店経営、航空自衛官、みなさん、しっかり地に足を付けて生活されています。学校新聞、『海よ光れ』をつくった体験が、その後の人生に生かされていると、本を読み終えて考えました。
とかく、いい話として本をつくりがちですが、現実の現場では、ドラマや映画、テレビの放送のように事実や映像を加工することはできないし、加工する必要もありません。
災害を利用して利潤の追求をする悪意の人や組織もいます。
本の内容は、現実的な内容で、飾らない出来事の記述が良かったと思います。また、筆者自身も故郷が山田町のお隣だそうで、実感のこもったレポートでした。取材を申し込んでも、まだ津波の話はしたくないという人の存在もリアルでした。身内や親族を失うような、よほど悲しい思いを体験されたのでしょう。
本に、A4ぐらいの大きさの新聞縮小版がはさんであったので、最初に読もうかと思いましたが、内容が、令和5年(2023年)となっていたので、本を読んだあとで新聞を読んだほうがいいと思い、後回しにしました。
まず全体のページを最初から最後までめくってみました。
東日本大震災が素材です。2011年3月11日金曜日午後2時46分発災です。平成23年でした。もうずいぶん前のことになりました。日本ではその後、熊本地震、能登半島地震が起きました。いつになるかわかりませんが、また、どこかで大きな地震は起きると思います。
本の中の場所として、『岩手県山田町』が出てきます。北にある宮古市と南にある釜石市の間に位置しています。
岩手県の県庁所在地である盛岡市の東南、海岸沿いの町で、南には、ニュースでときおり耳にする大槌町(おおつちちょう)があります。
山田町内の鉄道駅として、三陸鉄道リアス線で、久慈(くじ駅。久慈市)から盛(さかり駅。大船渡市)までの路線の途中に、『陸中山田』という駅があります。
東日本大震災が起きて何日かして、山田町から愛知県内に避難してきたという人を見たことがあります。わたしはそれまで、岩手県に山田町があるということすら知りませんでした。そして、ずいぶん遠くから愛知県まで避難して来られたものだと驚きました。
そのとき気づいたのですが、避難者のご家族というのは、ずっと同じところにいるわけではなくて、どこにいても一時的な滞在地で、短期間でよそへ移動されていきます。安住の地を見つけるのには時間がかかります。
この本の趣旨はなんだろう。『海よ光れ!』というのは、どういう意味なのだろう。今はわかりません。
学校新聞の話らしい。
この本のつくりは、相手にインタビューをして、聞き取ったことを文章にしてあるようです。
(わたしは、本を読みながら本の感想をつぎ足して文章を仕上げていく人です)
(1回目の本読み。最初のページから最後のページまでゆっくりめくってみる)
山田町:漁業の町。山田湾がある。カキやホタテの養殖をしている。
大沢地区という集落の話をするらしい。
被災後の白黒写真があります。凄惨です。(せいさん:むごたらしいようす。目をそむけたい)。家が津波で海水に水没しています。
文章にリズム感があります。音楽のようです。
明治29年6月15日(1896年)に地震があった。大津波が起きた。(この年の8月27日には、岩手県花巻市で、童話作家の宮沢賢治が誕生しています。37歳没。この本を読んでいた時に、邦画『銀河鉄道の父』を動画配信サービスで観ました)
自分の記憶では、明治27年が、日清戦争です。1894年でした。10年後の明治37年が、日露戦争でした。1904年でした。東北で大きな地震があったのは、1896年です。『1896年明治三陸津波』というそうです。ということは、2011年から数えて、また115年ぐらいたったら大津波が起きるほどの地震が発生すると考えてしまいます。
本の内容は、学校という狭い世界、狭い箱の中の空間の話です。
自然災害は戦争ではありません。人為的なことではないので、防ぎようがありません。地震や津波の発生を人間は止められません。
写真には、『がんばろう』の文字が並びます。だけど、『がんばろう』だけでは、息が詰まるということもあります。『リラックス』も必要です。
被災者のつらさは、被災した人間にしか出来事を実感できないということはあります。これからどうしようという絶望感があるとお察しします。
テレビや新聞でニュースを聞いた人は、たいていは、募金をしたり、現地の特産物を買ったりすることぐらいしか応援できません。
こどもは、いつまでもこどもでいるわけではありません。
文字を読むことはたいへんなことです。
新聞をすみからすみまで読む人は少ない。
新聞は、書いた人、作った人がいちばん内容を理解しているということはあります。
新聞をつくるという行為で、沈んでいた気持ちが救われるということはあると思います。
功績がある内容でも、仕事でやったからということはあります。
生活していくためにはお金が必要です。お金を手に入れるために仕事をすることが基本です。
社会生活は複雑ですからいろいろあります。
(2回目の本読み)
『はじめに』があって、小さな項目が1から13まであって、『おわりに』があって、『出版記念「海よ光れ」号外』があって、『あとがき』があります。本に別紙で付いている号外と本の150ページにある号外は同じものでした。
山田湾をはさんでいるのが、『重茂半島(おもえはんとう)』と『船越半島(ふなこしはんとう)』です。
力強い雰囲気で書かれた文章が続きます。
山田湾には、『大島』と『小島』があって、江戸時代には、大島にオランダ船が立ち寄ったそうです。
以前読んだ本に、ペリーが来航したとき、江戸幕府は、そのときはじめて外国から開国を迫られたわけではなくて、何年も前から、複数の国に開国を迫られて断っていたと書いてありました。外国はまずは、日本と貿易をしてお金を稼ぎたかった。
山田町の夏のイベント:魚賀波間神社(ながはまじんじゃ)のお祭り。おみこしがある。踊りとして、『神楽(かぐら)』、『虎舞(とらまい)。「大沢虎舞」と書いてあります。地元に保存会があって、小学校の運動会で披露しているそうです』、『獅子踊り(ししおどり)』がある。(東北らしいと思いました。以前読んだ本に、小学生の舞(まい)のことが書いてありました。『ふたりのえびす 高森美由紀 フレーベル館』 そちらは、舞台は青森県八戸あたり(はちのへあたり)、小学校5年1組の(郷土芸能であるらしき)地元の歌舞伎みたいなお祭り演技に小学生が挑戦します。えびす舞(まい):縁起がよくなりますように。豊作でありますように。無事祈願でしょう)
2011年3月11日東日本大震災が発災して、大津波が押し寄せた。山田町立大沢小学校に、おおぜいの人たちが避難した。
1 全校表現劇『海よ光れ』(悠太くん(5年生。福士悠太さん))
ここで、タイトルの“海よ光れ”が、劇であることがわかりました。
でも、書いてあるのは、東日本大震災が起きる一年前の時点です。どうしてだろう。
1年生から6年生まで全員で、『海よ光れ』という劇を演じるそうです。毎年その劇を上演するそうです。昭和63年(1988年)に脚本ができたそうです。大沢小学校に勤務していた箱石敏巳先生と、地元の劇団きたかぜ代表の藤原博行さんでつくったそうです。
祖父が孫に大沢地区に関する昔話をするストーリーだそうです。捕鯨の話、イカ漁の話、そして、明治と昭和に津波があった話だそうです。(明治はわかりましたが、昭和にもあったのか)
自然災害の発生に関する伝承があります。気をつけろ。また津波が来るぞです。
小学生たちが組み合って、津波の波を体で表現するそうです。潮のうねりがあるのでしょう。
(津波から子孫が身を守ることを示唆するための演劇なのだろうか。しさ:暗に教える。暗示する)
昭和の津波
昭和8年3月3日(1933年)昭和三陸地震津波。岩手県内の死者1408人(知りませんでした)
昭和35年5月24日(1960年)チリ地震の影響による津波。岩手県内の死者55人。(なんとなく、昔聞いたことがあります)
明治の津波
明治29年6月15日(1896年)明治三陸地震津波。岩手県内の死者18158人。うち、山田町で亡くなった人の数は、2984人だそうです。
劇は日本の宗教っぽい。
明神様(みょうじんさま。威厳と徳のある神)
登場する人の数が増えてきたので整理が必要です。
演劇の劇中の人物(役柄)として:よっぱらいの辰治郎じいさん(たつじろうじいさん)、校長先生、船頭)
福士悠太:大沢小学校5年生。お父さんは消防署員。大学と高校に進学する姉がいる。
古久保優希菜:5年生。背が高い。バスケットボールがじょうず。海の子児童会執行部員。なお、悠太も同じく海の子児童会執行部員をしている。4年生の時に内陸部の小学校から転校してきた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団に入った。
中村奈緒:6年生。児童会長。村人役を演じた。学校新聞『海よ光れ』の編集長をしている。
箱石佑太(はこいし・ゆうた):6年生。老人役を演じた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団員。
武藤愛(ぶとう・あい):6年生。ナレーターをつとめた。
大川海渡(おおかわ・かいと):6年生。ふたごの兄。大沢スポーツ少年団員。悠太も同じく大沢スポーツ少年団員である。ケガをして松葉杖をついている。
大川海成(おおかわ・かいせい):6年生。ふたごの弟。大沢スポーツ少年団員。鼻たれ坊主のこども役だった。
佐藤はるみ先生:新聞製作の担当。
この演劇は、東日本大震災の一年前に演じられています。
翌年、津波に被災したということは、そこに住んでいた人たちがどこかへ避難したということです。避難したということは、そこにあったコミュニティ(地域社会の集まり。集落)が消えたということです。読んでいて気になりました。本のページをずーっとめくっていきました。
143ページに、『大沢小学校は本年度で閉校になるため、これが最後の「海よ光れ」になります』と書いてありました。せつないものがあります。2019年(令和元年)秋のことでした。演劇での津波のシーンは、心が傷つく人がいるからやらないそうです。震災の翌年からずーっと、津波のシーンはやらなかったそうです。最後の演劇でもやりませんでした。
2 もう一つの「海よ光れ」(悠太くん)
小学校の学校新聞があります。全校表現劇(演劇)と同じ名称が付いています。
『海よ光れ』です。岩手県で新聞コンクールがあるようで、毎年いい成績をあげているそうです。
2010年3月には、全国大会で、『内閣総理大臣賞』を受賞しているそうです。たいしたものです。東日本大震災の前年です。
新聞の第73号:文化祭での学習発表会に合わせた特別号。2011年のことです。地震はまだ起きていません。担当は、佐藤はるみ先生でした。当時小学生のこどもさんがいたそうです。ベテラン教師です。
フライ旗(ふらいき):大漁旗(たいりょうばた)
できあがった学校新聞を、劇が始まる前に、水産会社の人、植木屋の人に渡します。いろいろお世話になっているそうです。
全校新聞である、『海よ光れ』以外に、一年生から、個人新聞をつくっているそうです。大沢小学校は、新聞づくりに熱心です。
29ページの新聞4枚は、文字が小さいので、老眼のわたしには読めません。
レタリング:手書きの文字。
なんというか、おとなの世界だと、仕事は、利潤の追求が目的です。(お金もうけ)
学校新聞づくりは、利潤の追求ではありません。
お金のことを考えなくてすむということは、自由な発想でつくれるということです。
3 楽しかった東京(優樹菜さん)
震災直前のことです。2011年3月5日、5年生の古久保優樹菜さんが東京へ行きました。
大久保裕明校長と佐藤はるみ先生と東北新幹線に乗りました。学校新聞の表彰式に参加するためでした。
これからは、卒業する6年生のあとを継いで、今の5年生のメンバーが中心になって、学校新聞『海よ光れ』の第78号をつくります。
大津波の発生の日が近づいています。
4 大津波(奈緒さん(児童会長6年生中村奈緒さん))
東京から岩手県山田町に帰ってきた6日後に被災されたそうです。
マグニチュード9.0(とても大きい)。巨大地震の発生です。
2011年(平成23年)3月11日午後2時46分のことでした。
しばらくして、大津波警報が発令されました。
大沢小学校は、標高が高い位置に建っていたので津波はそこまで届かない位置だったそうです。土地の人たちの避難所になったそうです。
逆に海に近いところに住んでいたこどもたちは家に帰れなくなりました。親にも会えないこどももいたそうです。
高橋信之副校長が安全を呼びかけて保護者をコントロールします。その後、大久保校長も小学校に駆けつけます。
まるで、災害パニック映画のような光景が、目の前で現実に繰り広げられます。大きな津波が、海に設置されている防潮堤を超えて、人間が住む住宅地へなだれこんできます。津波火災も発生します。乗用車もトラックも津波に流されています。救急車は呼べません。携帯電話もつながりません。
足りないものとして、薬、タオル、石油ストーブ、灯油、米、食料、ラジオ、トイレットペーパーなど。
生徒は全員が無事だったそうです。
小学校への避難者は、500人ぐらい。
東北の三月ですから屋外はまだ寒い。
『自助(じじょ。ほかに共助(近隣住民)と公助(役所の援助)があります)』が始まります。
とりあえず、自分や自分たちのことは、自分や自分たちでやるのです。
沖だし:中村奈緒さんのお父さんは漁師だったので、船を守るために船を沖に出しに行ったそうです。(なんだか、津波が来る中、津波に向かっていくわけで、恐そうです(こわそうです)。実際波に飲み込まれた人もいたようです)。お父さんは無事でした。
5 目を覚ませ、大沢の子(はるみ先生(佐藤はるみ先生))
避難所になった小学校には先生たちがいました。先生たちはこどもたちのめんどうをみます。
被災の翌朝(3月12日)、朝6時半に起きて、コイの池に流れ込んでいる沢水(湧き水)で顔を洗います。顔を洗ったらランニングです。ゆっくりランニングをしながら先生はこどもたちのつらい気持ちを聞きます。
6 ぼくらにできること(海渡くん(かいとくん。6年生大川海渡さん。ふた子の兄。将来は漁師になりたい)
近所のおばさんたちがつくってくれたおにぎりとおみそ汁を飲む。
避難所は孤立状態にあったので、助けがくるのを待ちます。
女の子たちは、トイレ掃除を始めました。災害で困るのは、トイレです。水がありません。男子は、コイの池から水を運びます。
おばさんたちは、ご飯をつくります。みんなで協力します。
大川ヒメ子さんは、こどもたちがつくった『がんばろう』のポスターに心が励まされました。
大川海渡さんのお母さんのお父さんは亡くなり、お母さんのおばあさんとおじさんは行方不明だそうです。
7 肩もみ隊出動!(雅みやびさん(6年生女子 福士雅さん)
お年寄りの肩を一年生から四年生のこどもたちでもんであげます。
お年寄りから昔ばなしを聞きます。
昭和8年(1933年)に三陸津波を体験されたそうです。
福士雅さんのご自宅は浸水で住めなくなったそうです。
役場職員さん道又城さん(みちまたじょうさん)は、役場は浸水した。周囲は火の海になった。津波の翌日に大沢地区を訪れた。こどもたちがしっかり動いていたそうです。
8 支援の手(悠太くん(福士悠太さん))
震災・大津波から三日後、航空自衛隊山田分屯基地(ぶんとんきち)の自衛隊員の人たちが救助・救援に来てくれました。孤立状態の解除です。
食料不足、着替えなし、お風呂なしでした。
校長の提案で、避難所で、『朝のあいさつ』の時間が始まる。
災害で亡くなった方に黙とうをささげて、困難を乗り越えていきましょうと声をだす。
お祭りのときにこどもたちが舞うのが、『差餌鳥舞(さしとりまい)』だそうです。また、お祭りで神楽(かぐら)の踊り手を見たい。平和な日が恋しい。
全国から支援の手が届き始めます。自衛隊員、医療チーム、警察官も全国から駆けつけます。
3月17日が、小学校の登校日だった。ひさしぶりに顔をみるこどももいた。
福士悠太さんは、『ありがとう』の感謝を伝えるために、学校新聞をつくりたいと思った。
85ページまで読んできて、親世代とこども世代の意識の違いについて考えました。
親世代がこどもだったころ、水道はなかったような気がします。
なにもかもが生まれたときからそろっている現代のこどもさんにはわからない世界です。不便な生活を体験したことがある親や祖父母の世代は、物がなかった時代に生きたことがあるので、いざ災害時には力を発揮するということはあります。
昔、水道がなかったことを熊太郎が文章にしたことがあります。データを探したら出てきたので、ここに落としてみます。
『水道がない』
(1967年)昭和四十二年までのわたしの体験で、水道が自宅になかったのは、茨城県、福岡県、熊本県に住んだときでした。(父親に放浪癖があって、短気だったこともあり、仕事場で上司や同僚とケンカして仕事を辞めてばかりいたので転校を何回も体験しました。景気のいい時代だったので、どこに行っても仕事が見つかりました)
1 茨城県
小学校には水道がありました。
冬が近づいてくると先生から水道の水は少しの量を出しっぱなしにしておくようにと教えられました。
そうしないと、水道がこおってしまうということでした。
自宅がある集落には、手押し式のポンプの井戸がたくさんありました。
奥さんたちの井戸端会議という言葉はここからきたのですね。
井戸端会議という言葉も今では死語(しご)になってしまいました。
おふろは銭湯(せんとう)のような大きな共同風呂がありましたが、無料でした。
茨城県と福島県の県境に近い太平洋側のところで炭鉱でした。
炭鉱労働者用の風呂で、家族は無料でした。
2 福岡県
ここには井戸はありませんでした。
自宅の台所に水をためるコンクリート製のかめがありました。
水はどうするかというと、バケツを持って近くの山道を少し登り、湧き水が流れているので、それをくんできて、かめに貯めて使っていました。
集落の中に、小さな共同風呂がありました。
風呂当番というのがあって、毎日各世帯もちまわりで、風呂をわかす仕事を奥さんたちがしていました。
夕方4時ころから夜中まで、奥さんたちは自宅とお風呂との間を行ったり来たりしていました。
トイレは、屋外にあって共同でした。
小学校に水洗トイレができたとき、朝礼で先生からその使い方を習いました。
わたしは、学校からの帰り道にのどがかわくと、田んぼのあぜ道の横を流れている用水路の水を飲んでいました。
そんなわけで、わたしと弟は、学校のギョウチュウ検査などで、時々ひっかかりました。
3 熊本県
熊本県内で何回か引っ越しをしたので、順番に書くと、最初の場所では、集落に水道が1本だけあったことを覚えています。
集落に住んでいる人たちみんなで、その1本の水道を使用していたのではないかと思います。
その地区では、わたしは自分が毎日入浴をしていたという記憶がありません。
父親の会社の社員用の風呂に入ったという記憶が1回だけあります。
毎月、父の給料が支給されると、家族4人そろって路線バスに乗って、近くの温泉に入りにいっていたことはよく覚えています。
次に住んだところでは、山からわき出る清水(しみず)を樋(とい)を使って、台所に引き込んで使用していました。
そこは農村で、おおかたの家には、つるべ式の井戸がありましたが、わたしの家の井戸は、自宅から山道を1分ぐらい歩いたところにありました。
井戸の底には、魚が何匹かいて、その魚が死んで浮かんできたら、その水は汚染(おせん)されているからのんじゃいけないということなのかなと今は考えます。
その家にお風呂(ふろ)があったのかどうか記憶がありません。
近所の家に、何回か風呂に入りに行ったことがあります。
それらはみな五右衛門風呂(ごえもんぶろ)と呼ばれるもので、火傷(やけど)しないように、足の裏で板を踏みながら入るもので、こわかったことをおぼえています。
洗濯は、川でしていました。
近所の奥さんたちが、せんたく物とせんたく板をもって集まって、川まで行ってせんたくをしていました。
せんたくが終わるまでの間、わたしは、竹がいっぱい生えていたので、笹舟(ささぶね)をたくさんつくって川に流して遊んでいました。わたしが、小学校1年生ぐらいのときのお話です。
わたしは、小学校で習った一寸法師(いっすんぼうし)とか、桃太郎とかの話は、本当のことだろうと、その当時は思っていました。
本にはさんである学校新聞の縮小版を読んでみます。
『海よ光れ』号外となっています。発行の日付は、令和5年(2023年)です。大沢小学校は、1876年開校(昭和51年)、2020年閉校(令和2年)となっています。寄稿者は、この本にでてくる当時小学5年生、6年生だったメンバーです。みなさんおとなになっています。23歳とか24歳です。
しっかりした手書きの文章です。みなさん、がんばられました。
福士悠太さん(役場職員)、福士雅さん(ふくし・みやびさん 看護師)、古久保優樹菜さん(大学生でバスケットボールをしている)、大川海渡さん(漁師)、中村奈緒さん(航空自衛官)、武藤愛さん(実家の食料品店経営)、箱石佑太さん(職業は書いてありませんが、被災時の思い出話が書いてあります)、大川海成さん(警察官)
当時の思い出とか、コロナ禍のこと、未来は何が起きるかわからないこと、震災・津波から10年少し経って思うことなどが書いてあります。月日がたつのは早いものですが、それぞれご苦労があったとお察しします。
9 卒業式(海成くん。大川海成くん6年生)
項目はまだ9ですが、全ページを読み終えました。(読みながら感想をつぎ足しています)
最後の先生の手記を読んで、この本のつくりを観察して、本の内容は、意図的につくってある美談ではないという仕切りに好感をもちました。
生身の人間、東北弁をお互いにしゃべりながらの気持ちの交流があります。書籍化するにあたっての葛藤(かっとう。本当の本にしていいのか。書かれているおとなになっているこどもたちにマイナスの影響があるのではないか)がありました。関係者のみなさんの了解を得てできあがっている本です。
さて、項目9からの感想メモです。
各個人の話になります。
大川海成くん、6年生、ふたごの弟さんのほうです。全校表現劇、『海よ光れ!』では、鼻たれ坊主のこぞうを演じました。津波のあとは、小学校に泊まって、その後は、親戚の家でお世話になっているそうです。
6年生の卒業式は、津波の影響で、3月25日に延期になったそうです。
卒業式に出席した6年生は29人です。29人が6年生全員だそうです。少ない数ですね。
親にとってみれば、こどもというものは、生きていてくれればそれでいいのです。勉強ができなくてもいいし、運動ができなくてもいいのです。親が、小学校の先生に一番望むことは、生きて卒業させてくださいということなのです。
10 2101通の手紙(愛さん。武藤愛さん6年生)
学校新聞、『海よ光れ!』の第78号をつくる。つくるメンバーは、6年生の武藤愛さん、大川海渡くん、大川海成くん、5年生の福士悠太くんの4人です。
学校新聞が全国大会で表彰されたことがきっかけになって、全国から被災地の大川小学校のメンバーを励ます手紙が新聞社を仲介にして届きます。津波災害が発生した当初、大川小学校の児童の安否がわからなかったそうです。
2101通ものたくさんの応援手紙が届きました。
11 学校新聞 第78号 『大沢の海よ光れ!』(悠太くん。福士悠太くん。進級して6年生)
第78号の学校新聞、『海よ光れ!』が発行されました。つくっている最中の4月7日にも大きな地震があったそうです。たいへんです。
まだ、150人の人たちが小学校で避難所生活を送っているそうです。
12 新聞にこめる思い(優樹菜さん。進級して6年生。古久保優樹菜さん)
4月20日が大沢小学校の入学式です。震災後、入学式が遅れていました。新一年生は11人です。全校生徒の数は91人です。少ないです。
5月11日:学校新聞、『海よ光れ』第79号が完成しました。
お弁当給食だったのが、給食が実施されたそうです。避難所で避難している人たちがつくってくれたそうです。
こどもたちを午前中で下校させても、家でお昼の準備をできる家庭が少なかったそうです。
こどもたちはずっと、トイレ掃除とお年寄りの肩もみを続けています。
5月31日:学校新聞、『海よ光れ』第80号が発行されました。
避難所のお年寄りへの感謝があります。こどもたちのために、ぞうきんを縫ったり、畑を耕したり草取りをしてくれたりしたそうです。
13 思いがけないこと(悠太くん。福士悠太くん。6年生)
学校新聞は、第81号、第82号と発行を重ねていきました。
三陸鉄道の、『陸中山田駅』のことが書いてあります。
先日、NHK土曜夜の番組、『プロジェクトX(エックス)』で、被災当時のことが放送されていました。三陸鉄道の沿線では津波で線路や駅や橋脚が流されて、一時は廃線しかないという状況もあったそうですが、みなさん努力されて、三陸鉄道を奇跡が起こるように復活させておられます。人間の力って、すごいなあと思いました。
全校表現劇、『海よ光れ』は、23年間続いてきた大沢小学校の伝統行事でしたが、震災の年の上演はありませんでした。中止です。運動会もなし。大沢虎舞(おおさわとらまい)もありませんでした。
学校新聞、『海よ光れ』第85号が発行されました。
大沢の町が少しずつ復興に向かっていることがわかります。
町の復興ベスト5です。
1位 店が再開した。(お買い物ができます) 2位 ガレキが片付けられた。(町がきれいになりました) 3位 漁船が増えた。(大沢は、漁業の町なのでしょう) 4位 仮設や建物が建ってきた。(新たな市街地の形成です) 5位 道路が直った。(道路は、人間の血管のようなものです。物流が回復します)
小学校の復興ベスト5です。
1位 校庭が使えるようになった。(校庭が使えない小学校はつらい。遊び場がありません) 2位 学校が避難所ではなくなった。(避難者がちゃんと住むところができたということです) 3位 図書館が利用できるようになった。(本読みは、心の支えのために大切です) 4位 (支援)物資がなくなった。(支援の手が少なくなったということはいいことなのです。自活できるようになった) 5位 転校してきた子どもたちが戻ってきた。(同じ土地で育った仲間です)
2012年(平成24年)1月31日発行の、『海よ光れ』第88号
来年度児童会執行部選挙特集だった。
福士悠太くんたち6年生は、3月で小学校を卒業します。
時間の流れは早いものです。
佐藤はるみ先生が、学校新聞、『海よ光れ』が、全国新聞コンクールで、内閣総理大臣賞を受賞したことを教えてくれます。
2月21日、6年生だけで、『海よ光れ』の劇を披露しました。
あきらめていた修学旅行にも行けました。
盛岡市での福祉大会で、『大沢虎舞』を披露できました。
『終わりに』
2019年秋(令和元年)に筆者の田沢五月さんが、多田敢校長(ただ・つよしこうちょう)に話をして、全校表現劇、『海よ光れ』を観劇されたそうです。
大沢小学校は、その年の年度で閉校になったそうです。大沢小学校の143年の歴史が閉じました。
学校新聞、『海よ光れ』は、新聞委員会でつくっているそうです。委員会の6年生のメンバーが、三上乃愛(みかみ・のあ)さん始め5人だったそうです。震災のときは、3歳だったそうです。
最後の新聞:『海よ光れ』第175号です。コロナ禍が始まる頃でもありました。
2023年(令和5年):出版記念号外、『海よ光れ』発行。23歳、24歳になった昔のメンバーが、号外を発行しました。みなさん故郷や社会に貢献されています。町役場職員、警察官、看護師、漁師、町の商店経営、航空自衛官、みなさん、しっかり地に足を付けて生活されています。学校新聞、『海よ光れ』をつくった体験が、その後の人生に生かされていると、本を読み終えて考えました。
とかく、いい話として本をつくりがちですが、現実の現場では、ドラマや映画、テレビの放送のように事実や映像を加工することはできないし、加工する必要もありません。
災害を利用して利潤の追求をする悪意の人や組織もいます。
本の内容は、現実的な内容で、飾らない出来事の記述が良かったと思います。また、筆者自身も故郷が山田町のお隣だそうで、実感のこもったレポートでした。取材を申し込んでも、まだ津波の話はしたくないという人の存在もリアルでした。身内や親族を失うような、よほど悲しい思いを体験されたのでしょう。
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