2024年01月28日
泉岳寺見学 忠臣蔵
泉岳寺見学(せんがくじ) 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)
東京からの帰路、予定が変わって、品川駅で予約してあった新幹線の発車時刻まで2時間ぐらい時間ができたので、前々から行きたかった品川駅の近くにある泉岳寺を訪問しました。
泉岳寺に近い品川駅からの最寄り駅は、『高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)』でした。駅周辺は複数の高層ビルディングが建築中で、お寺さんまで、工事現場の中を歩いて行くような感じでした。
次の写真では、お客さんを写さないように、上のほう、駅名表示だけを撮影しました。
駅を出て歩いて、付近を住民であろう街歩きをする人たちは、女性もこどももおしゃれな感じのファッションをされていました。住む世界がわたしとは違うようです。こどもさんがしょってるランドセルは見たこともない高級感がありました。ママのお洋服の生地が高級そうに見えました。
忠臣蔵は、先月12月にテレビのBS放送連続ドラマで観ました。松平健さんが、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じておられました。(いつか、マツケンサンバをじかに観てみたい。楽しいだろうなあ)
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんの立派な銅像が迎えてくれました。
赤穂事件(あこうじけん):1701年4月21日、江戸城松之大廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家(こうけ:儀式典礼を指導する役職)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に短刀を抜いて切りつけた。刃傷(にんじょう):刃物で人を傷つけること。浅野内匠頭長矩は即日切腹の処分を受けたが、吉良上野介義央はおとがめなし。喧嘩両成敗とはならず。(自分なりに考えると、浅野内匠頭長矩の人格を否定するような言動が吉良上野介義央にあったのだろうと推測するのですが真相はわかりません)。当時は、紛争を平穏におさめるために、『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』が事態収拾の定石(じょうせき。きまりきったかたち。最善策)であったようです。でも、そうではない一方的な処分になったことから赤穂藩側の怒りが高まったととれます。
赤穂藩は改易(かいえき:侍に対する罰。平民とする。赤穂城は明け渡し)となり、その後、再興の道も閉ざされた。
赤穂藩で筆頭家老だった大石内蔵助始め47人のメンバーは、1703年1月30日(元禄15年12月14日)吉良邸に討ち入り、主君の仇討ちを果たし、吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。討ち入りをしたメンバーは、幕府の指示に従い切腹し、主君と同じく、泉岳寺に葬られた。
仇討ちのメンバーは、大石内蔵助からの強制ではなく、真に仇討ちをしたい人間だけが選抜されたとなにかで読んだ記憶があります。
境内(けいだい)に墨で文字が書かれた太い木の柱が立っていました。
以前、長野県にある善光寺でも、訪れたときに、似たパターンで柱が立っていました。
以下が、四十七士の(しじゅうしちし)の方たちのお墓です。
景色の背景に、高輪ゲートウェイ駅あたりで建築中の近代的なビルが写っており、江戸元禄(げんろく)時代の風景と令和6年の高層ビルが同じ写真の中にあり、これはこれで、東京らしい光景です。
父と子、義父と子の組み合わせで亡くなっているパターンが多い。年長者と若者という組み合わせです。子どもたちの年齢は若い。
次の墓が、大石内蔵助のお墓です。
木造建物の中、左にある墓石に大石主税(おおいしちから)と書いてありました。大石内蔵助の息子さんです。16歳でした。まだ若い。
次が、浅野内匠頭のお墓です。
たまたまお線香が、ぼうぼうと炎をあげて燃えていました。
この場所に吉良上野介の首を供養で置いたのだろうか。(わたしなんぞは、人は死んだら終わりと考える人間なので、理不尽さがあったとしてもがまんして、農民として、畑仕事をやりながら生き続けたいと考えるのです)
仇討ち(あだうち)に関していろいろ考えがあるのでしょうが、自分は自分なりに自分の読書歴から考えてみました。主君の無念をはらすことに加えて、自分のプライドを維持するために報復するということがあるのでしょう。
以前、各種職業を体験された人たちの体験本をシリーズで何冊か読んだことがあります。
共通するのは、『恨み(うらみ)』でした。上司や顧客、同僚や後輩からパワハラやカスタマーハラスメントで、人格を否定するような激しい叱責を受けて、相当な憎悪心(ぞうおしん)を各自がもたれて、がまんされて、最後は定年や中途で退職されていました。
そのとき思ったのは、加害者側として身に覚えのある人は気をつけたほうがいい。お互いに権利義務関係がない状態で偶然出会ったときは、被害者はカッとなって、加害者に罵声を(ばせい)を浴びせたり、ビンタの一発も飛ばしてきたりするかもしれません。
ハラスメント行為(困らせる。悩ませる。いやがらせをする。人格否定をする。仲間はずれにする)をされたほうは、一生相手に対する恨み(うらみ)を忘れないのです。
東京からの帰路、予定が変わって、品川駅で予約してあった新幹線の発車時刻まで2時間ぐらい時間ができたので、前々から行きたかった品川駅の近くにある泉岳寺を訪問しました。
泉岳寺に近い品川駅からの最寄り駅は、『高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)』でした。駅周辺は複数の高層ビルディングが建築中で、お寺さんまで、工事現場の中を歩いて行くような感じでした。
次の写真では、お客さんを写さないように、上のほう、駅名表示だけを撮影しました。
駅を出て歩いて、付近を住民であろう街歩きをする人たちは、女性もこどももおしゃれな感じのファッションをされていました。住む世界がわたしとは違うようです。こどもさんがしょってるランドセルは見たこともない高級感がありました。ママのお洋服の生地が高級そうに見えました。
忠臣蔵は、先月12月にテレビのBS放送連続ドラマで観ました。松平健さんが、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じておられました。(いつか、マツケンサンバをじかに観てみたい。楽しいだろうなあ)
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんの立派な銅像が迎えてくれました。
赤穂事件(あこうじけん):1701年4月21日、江戸城松之大廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家(こうけ:儀式典礼を指導する役職)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に短刀を抜いて切りつけた。刃傷(にんじょう):刃物で人を傷つけること。浅野内匠頭長矩は即日切腹の処分を受けたが、吉良上野介義央はおとがめなし。喧嘩両成敗とはならず。(自分なりに考えると、浅野内匠頭長矩の人格を否定するような言動が吉良上野介義央にあったのだろうと推測するのですが真相はわかりません)。当時は、紛争を平穏におさめるために、『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』が事態収拾の定石(じょうせき。きまりきったかたち。最善策)であったようです。でも、そうではない一方的な処分になったことから赤穂藩側の怒りが高まったととれます。
赤穂藩は改易(かいえき:侍に対する罰。平民とする。赤穂城は明け渡し)となり、その後、再興の道も閉ざされた。
赤穂藩で筆頭家老だった大石内蔵助始め47人のメンバーは、1703年1月30日(元禄15年12月14日)吉良邸に討ち入り、主君の仇討ちを果たし、吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。討ち入りをしたメンバーは、幕府の指示に従い切腹し、主君と同じく、泉岳寺に葬られた。
仇討ちのメンバーは、大石内蔵助からの強制ではなく、真に仇討ちをしたい人間だけが選抜されたとなにかで読んだ記憶があります。
境内(けいだい)に墨で文字が書かれた太い木の柱が立っていました。
以前、長野県にある善光寺でも、訪れたときに、似たパターンで柱が立っていました。
以下が、四十七士の(しじゅうしちし)の方たちのお墓です。
景色の背景に、高輪ゲートウェイ駅あたりで建築中の近代的なビルが写っており、江戸元禄(げんろく)時代の風景と令和6年の高層ビルが同じ写真の中にあり、これはこれで、東京らしい光景です。
父と子、義父と子の組み合わせで亡くなっているパターンが多い。年長者と若者という組み合わせです。子どもたちの年齢は若い。
次の墓が、大石内蔵助のお墓です。
木造建物の中、左にある墓石に大石主税(おおいしちから)と書いてありました。大石内蔵助の息子さんです。16歳でした。まだ若い。
次が、浅野内匠頭のお墓です。
たまたまお線香が、ぼうぼうと炎をあげて燃えていました。
この場所に吉良上野介の首を供養で置いたのだろうか。(わたしなんぞは、人は死んだら終わりと考える人間なので、理不尽さがあったとしてもがまんして、農民として、畑仕事をやりながら生き続けたいと考えるのです)
仇討ち(あだうち)に関していろいろ考えがあるのでしょうが、自分は自分なりに自分の読書歴から考えてみました。主君の無念をはらすことに加えて、自分のプライドを維持するために報復するということがあるのでしょう。
以前、各種職業を体験された人たちの体験本をシリーズで何冊か読んだことがあります。
共通するのは、『恨み(うらみ)』でした。上司や顧客、同僚や後輩からパワハラやカスタマーハラスメントで、人格を否定するような激しい叱責を受けて、相当な憎悪心(ぞうおしん)を各自がもたれて、がまんされて、最後は定年や中途で退職されていました。
そのとき思ったのは、加害者側として身に覚えのある人は気をつけたほうがいい。お互いに権利義務関係がない状態で偶然出会ったときは、被害者はカッとなって、加害者に罵声を(ばせい)を浴びせたり、ビンタの一発も飛ばしてきたりするかもしれません。
ハラスメント行為(困らせる。悩ませる。いやがらせをする。人格否定をする。仲間はずれにする)をされたほうは、一生相手に対する恨み(うらみ)を忘れないのです。
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