2015年10月04日
スクラップ・アンド・ビルド 羽田圭介
スクラップ・アンド・ビルド 羽田圭介(はだけいすけ) 文藝春秋
全体で120ページぐらいのうちの50ページあたりまで読みました。この時点から感想文を書き始めてみます。
東京多摩地区の3LDK分譲マンションで暮らす田中健斗(28歳、フリーター、今は、イベント会社のコンサートスタッフとしての単発肉体労働アルバイト、以前はカーディーラーにて5年間就労し現在退社後7か月が経過している。)
健斗の家族は、長崎県出身元農業従事者で介護サービスを受けている祖父(87歳、年金収入あり。服毒自殺未遂歴あり。田中健斗宅の前は、4年間、埼玉県内で健斗の叔父独り者が面倒をみていた。)、祖父の実子であり健斗の母親(60歳定年後嘱託勤務月収22万円。5人兄妹)、健斗の父親はすでに病死している。
あとは、健斗の彼女というか、セックスフレンドの部分が大きい亜美、そして、健斗の幼馴染で介護福祉士をしている大西大輔などが登場します。
高齢者の生活状況を凝視して、とくに介護が必要となった認知症含みの高齢者対応において、介護する者が努力しても、対象者の状況(体調・知能)は良くならないことがわかっていて、そこで、どうするのかという小説だと、今の時点では感じています。
介護する側の疲れ、矛盾(手取り足取りの世話をすると本人の自力行動能力を奪う)などが書いてあり、高齢者を商品として見る福祉産業と、福祉産業のおかげで雇用にありつける地方の若年層の気持ちが、ときに卑屈さをもって語られている小説です。
自分でできることは、本人にやらせる。介護者がやったほうが介護者の仕事は早く楽にできるのだが、本人にとって他者の手助けは悪い結果(寝たきりになるとか)につながってしまうという教訓本の面ももっている作品です。書中では、「プロの過剰な足し算介護」と表現されています。
タイトルとカバーの写真がしっくりこない。建築途中の高架道路の橋脚部が並んでいます。意味がわかるようでわからない。
介護では、親子でも険悪な関係になる。介護者は尊厳死を考える。
高齢者を邪魔者扱いする。いないほうがいい。いなくてもいい。長生きってなんだろう。今から50年ぐらい前は長生きをする人は少なかった。長寿の夢がかなったのに苦痛は介護する側の人間に拡大された。
ここまできて、ふと、思ったのです。
家族がいない人はどうなるのだろう。未婚、子なし。親は死去。
お金が頼りか。お金がないなら、生活保護受給で医療費・介護費用等を支払う。
しばらく考えて、家族がいてもいなくても同じという結論に達しました。
(つづく)
年金保険料や健康保険料を毎月払っている若年層世代とそれを消費している超高齢者世代との対立が若干書かれています。若年層世代には、彼らが超高齢者世代になったときのあるのかないのかわからないような社会保障問題があるようです。それ以前に、この長寿社会が長続きするとも思えません。
個人個人でみれば、介護をするその期間はいっときのものです。必ずいつかは終わりがきます。
健斗は頻繁に腕立て伏せをして体を鍛えます。腕立て伏せの反復行為が「スクラップ・アンド・ビルド」というタイトルにつながっていくようですが、よくはわかりません。
彼は英会話のヒアリング練習もやります。
治験というなんだか、医療行為の試しのアルバイトもしています。
不審な点として、祖父はどうも嘘で認知症患者を演じているのではないか。(周囲の人たちの好意に甘えようとしている。)
祖父や祖父以外の患者も含めて、本人は死にたいとサインを発しているが、実は、生きたいのではないか。(生への執着心。人間の本能)
いわゆる「老害」の表現がありますが、だれしもがやがて老人になる運命なので、明日は我が身です。許容量を超えているのが現代世相なのでしょう。
入院中のベッド上にいる老婆の「殺してくれ!」に、看護師が「もう少し待っててねぇ」と声をかけ、老婆が「はぁい」と返事をするシーンに安らぎました。
わからなかった言葉です。
「シナプス」調べましたがよくわからず、脳の働きをつかさどる細胞と理解しました。
「摘便」どうも他者にほじくってもらうようです。排尿・排便行為を自分でできなくなったときは相当ショックです。人格を否定されてまで生きていたくないと考えるでしょうが死ねないつらさがありそうです。
ラストが調布飛行場から飛び立つセスナ機をながめるシーンです。
先日のセスナ機離陸失敗、墜落事故のニュースがよみがえりました。まだ若い女性が事故死されました。ここまで読み続けてきた長寿の人たちとの命の長さの比較に考えが及び、しみじみしました。全員が長生きできるわけでもありません。短命はつらい。標準がいい。
全体で120ページぐらいのうちの50ページあたりまで読みました。この時点から感想文を書き始めてみます。
東京多摩地区の3LDK分譲マンションで暮らす田中健斗(28歳、フリーター、今は、イベント会社のコンサートスタッフとしての単発肉体労働アルバイト、以前はカーディーラーにて5年間就労し現在退社後7か月が経過している。)
健斗の家族は、長崎県出身元農業従事者で介護サービスを受けている祖父(87歳、年金収入あり。服毒自殺未遂歴あり。田中健斗宅の前は、4年間、埼玉県内で健斗の叔父独り者が面倒をみていた。)、祖父の実子であり健斗の母親(60歳定年後嘱託勤務月収22万円。5人兄妹)、健斗の父親はすでに病死している。
あとは、健斗の彼女というか、セックスフレンドの部分が大きい亜美、そして、健斗の幼馴染で介護福祉士をしている大西大輔などが登場します。
高齢者の生活状況を凝視して、とくに介護が必要となった認知症含みの高齢者対応において、介護する者が努力しても、対象者の状況(体調・知能)は良くならないことがわかっていて、そこで、どうするのかという小説だと、今の時点では感じています。
介護する側の疲れ、矛盾(手取り足取りの世話をすると本人の自力行動能力を奪う)などが書いてあり、高齢者を商品として見る福祉産業と、福祉産業のおかげで雇用にありつける地方の若年層の気持ちが、ときに卑屈さをもって語られている小説です。
自分でできることは、本人にやらせる。介護者がやったほうが介護者の仕事は早く楽にできるのだが、本人にとって他者の手助けは悪い結果(寝たきりになるとか)につながってしまうという教訓本の面ももっている作品です。書中では、「プロの過剰な足し算介護」と表現されています。
タイトルとカバーの写真がしっくりこない。建築途中の高架道路の橋脚部が並んでいます。意味がわかるようでわからない。
介護では、親子でも険悪な関係になる。介護者は尊厳死を考える。
高齢者を邪魔者扱いする。いないほうがいい。いなくてもいい。長生きってなんだろう。今から50年ぐらい前は長生きをする人は少なかった。長寿の夢がかなったのに苦痛は介護する側の人間に拡大された。
ここまできて、ふと、思ったのです。
家族がいない人はどうなるのだろう。未婚、子なし。親は死去。
お金が頼りか。お金がないなら、生活保護受給で医療費・介護費用等を支払う。
しばらく考えて、家族がいてもいなくても同じという結論に達しました。
(つづく)
年金保険料や健康保険料を毎月払っている若年層世代とそれを消費している超高齢者世代との対立が若干書かれています。若年層世代には、彼らが超高齢者世代になったときのあるのかないのかわからないような社会保障問題があるようです。それ以前に、この長寿社会が長続きするとも思えません。
個人個人でみれば、介護をするその期間はいっときのものです。必ずいつかは終わりがきます。
健斗は頻繁に腕立て伏せをして体を鍛えます。腕立て伏せの反復行為が「スクラップ・アンド・ビルド」というタイトルにつながっていくようですが、よくはわかりません。
彼は英会話のヒアリング練習もやります。
治験というなんだか、医療行為の試しのアルバイトもしています。
不審な点として、祖父はどうも嘘で認知症患者を演じているのではないか。(周囲の人たちの好意に甘えようとしている。)
祖父や祖父以外の患者も含めて、本人は死にたいとサインを発しているが、実は、生きたいのではないか。(生への執着心。人間の本能)
いわゆる「老害」の表現がありますが、だれしもがやがて老人になる運命なので、明日は我が身です。許容量を超えているのが現代世相なのでしょう。
入院中のベッド上にいる老婆の「殺してくれ!」に、看護師が「もう少し待っててねぇ」と声をかけ、老婆が「はぁい」と返事をするシーンに安らぎました。
わからなかった言葉です。
「シナプス」調べましたがよくわからず、脳の働きをつかさどる細胞と理解しました。
「摘便」どうも他者にほじくってもらうようです。排尿・排便行為を自分でできなくなったときは相当ショックです。人格を否定されてまで生きていたくないと考えるでしょうが死ねないつらさがありそうです。
ラストが調布飛行場から飛び立つセスナ機をながめるシーンです。
先日のセスナ機離陸失敗、墜落事故のニュースがよみがえりました。まだ若い女性が事故死されました。ここまで読み続けてきた長寿の人たちとの命の長さの比較に考えが及び、しみじみしました。全員が長生きできるわけでもありません。短命はつらい。標準がいい。
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