2020年06月27日

平和のバトン 弓狩匡澄(ゆがり・まさずみ) 2020課題図書

平和のバトン 弓狩匡澄(ゆがり・まさずみ) くもん出版 2020課題図書

 1945年(昭和20年)8月6日月曜日午前8時15分広島に原子爆弾が投下されたお話です。
 毎年、読書感想文コンクールの課題図書には、第二次世界大戦に関する本が何冊か選ばれます。
 『過ちを繰り返さない』ために、子孫への伝承が必要です。
 『対立の解決として「戦争」を選択してはいけない』というメッセージを次の世代にも伝えていかなければ、悲惨な不幸が繰り返されてしまいます。
 読みながら感想を書き足していきます。

 75年ぐらい前になりますから、現在、それ以上の年齢の方は、戦争体験者です。永い時が流れました。これからも平和であってほしい。

 第一章から第六章まであります。タイトルにもあるとおり、読んでいただいて、平和のバトンを次の世代となる人へ渡します。

 原子爆弾が広島に投下された当時の広島県立広島第二中学校(現在の広島観音高校)に通っていた中学生のお話から始まります。
 地図を見たらその学校は、原爆ドームがそばにある平和記念公園の近くにある学校でした。以前、その高校のそばの道路を、自家用車を運転して走ったことがあるのを思い出しました。
 平和公園には二回行ったことがあります。その後知ったことですが、爆心地は、原爆ドームの近くにあり、そのあたりにあった貸し駐車場に自家用車を停めました。本を読んでいて内容を身近に感じることができました。

 本のカバーを見ると、パレットと絵筆、絵の具の青、緑、黄色、橙色、赤、白があるので、この本は、絵(美術)のことを書いてあるのでしょう。

 日本にとっての第二次世界大戦は、1941年12月8日が開戦で、1945年8月15日が終戦でした。

 建物疎開:空襲で火災が広がることを防ぐためにあらかじめ建物を取り壊しておくこと。本の中では、中学一年生のみなさんが、取り壊したあとの片付け作業を行っています。建物に住んでいた人たちは、立ち退きをしなければなりません。

 B-29:大型戦略爆撃機。原子爆弾を投下した当時の高度は1万メートルだった。わずか3機で来て、1発の原子爆弾を投下した。飛行機の機体の長さは全長30mぐらい。原子爆弾の長さは、長さ3mぐらい、直径1.5mぐらい。小さな爆弾で十万人以上の人たちが命を落とした。そして、わずか三日後の8月9日には長崎市にも原子爆弾が投下されました。
 長崎原爆資料館で、原子爆弾の模型を見たことがあります。こんなちいさなもので、おおぜいの人たちが死んだり傷ついたりして、かつ、その後何十年間も放射能による後遺症に悩む人が出たのかと、驚きと悲しみに包まれました。

 他の資料を読むと、原爆を投下したアメリカ合衆国のパイロットたちは、職務としてしたことで、悪いのは、戦争を引き起こした日本をコントロールしていた当時の軍部上層部としています。
 戦争を終結させるという目的があったとは思いますが、仕事として給料をもらうためならなんでもやるのかと、人間というものには、恐ろしい面があると感じます。また、原子爆弾の実験をしてみたかったというアメリカ合衆国側に、黄色人種を人としてみない人種差別的な意識も感じられます。

 本書では12ページに、爆心地から半径500メートル圏内にいた約2万1663名が数秒間のうちに即死、原爆が投下された1945年末までに14万人余りが亡くなったそうです。そうやって考えてみると、広島、長崎で多数の犠牲者が出て、ようやく終戦を迎えることができたという戦争の悲惨さがあります。戦争というものは、始めるときよりもやめるときのほうがむずかしい。

(つづく)

 『次世代と描く原爆の絵』活動に関する記述が続きます。2007年から、広島市立基町高等学校の創造表現コースでスタートしています。被災者の話を聴いて、一年生と二年生の生徒さんが絵にします。
 「記憶」を「記録」に代えるために、原子爆弾が投下された当時の情景を絵画にして後世に残す。目的は、二度と不幸な戦争を起こさないため。

 24ページにある現在の「原爆ドーム」である当時の「産業奨励館」の絵がきれいです。落ち着いた穏やかな建物に見えます。
 内容を読んでいると、2020年の今の時代では、「次世代へ」というよりも、「次々世代へ」という感じがします。被ばく三世(孫の世代)の方もいらっしゃいます。ただ、ご本人に実感はないようです。 悲惨な体験を風化させないためにも絵を残さなければなりません。
 
 どうも読んでいると、当時の中学・高校の生徒は、教室で勉強していたのではなく、戦争に関する労役を提供する者として、作業に従事していたことがわかります。
 建物疎開で、家屋を取り壊したあとの片付け作業に従事していた。女子は、飛行機のプロペラをつくる工場で働いていた。農作業もしていたようです。

 作品『この世界の片隅に』は、読んだこともありますし、アニメ映画も観ました。日常生活を描いたしみじみする作品でした。また、今回この本を読んで、広島湾では、凪(なぎ)が発生する。(本書では、海風と陸風が入れかわり、風がパタリと止むことを凪というとあります)ということを知り、『この世界の片隅に』を書かれたこうの史代さんのもうひとつの作品『夕凪の街 桜の国』の意味がわかりました。

 被爆者は、被爆当時のことを話したがらなかった。思い出したくないつらい過去だった。生き残った罪悪感もあった。

 印象に残った部分などです。
 自分のちぎれたうでを自分の手でもって歩いていた人が倒れて亡くなった。

 さきざき、娘の嫁入り道具を用意するために、大工の父親が、いい樫(かし)の材木を貯めていた。

 広島県人にとって、原子爆弾が投下された8月6日は特別な日だけれど、広島を出て、ほかのところで暮らしてみると、他府県の人たちにとっては、ふつうの一日になっている。(この部分を読んで、沖縄県民のことが頭に浮かびました。6月23日慰霊の日のことを知る本土の人も少ない。同日は、米軍が沖縄に上陸して日本軍が全滅した日です。両軍の兵士と一般人で、24万人以上が亡くなったと知りました。たいてい、人というものは、自分の身のまわり、2.5mの範囲内のことにしか興味をもてないというのがわたしの持論です)

 『憎しみからはなにも生まれない』70歳になって、講和で被爆体験を語ったところ、それを聴いていた米国人の高校生が、「許してください」と謝罪に来て、頭を下げた。

 被ばくして、いまも生きている人たちは3万468名だけれど、あと何十年かで、0名になる。被爆者の記憶が記録として残るように絵画は描かれた。

 これからは、若い人たちが中心になって、戦争を選択しないように考えて行動してほしいというこの本全体からのメッセージがあります。

 13歳男子は、お母さんのお弁当箱をかかえて白骨化で発見された。
 現在85歳の方の言葉として、『地獄はあの世にあるのではなく、この世にある』
 『プールサイドの惨劇』という絵の中にいる人から苦しむ叫び声が聞こえてくるようです。この状態が、当時は、東京まですぐに伝わらなかった。三日後には、今度は長崎に原爆が投下された。そして、米軍は原子爆弾の実験をしたかった。
 井伏鱒二さんの小説「黒い雨」を思い出しました。広島原爆を扱った作品です。『静かな恐怖を描く』に強い印象を受けました。作品は、『自宅の前で黒い雨に遭う自分(じたくのまえでくろいあめにあうじぶん)』放射能を帯びた雨に濡れて被ばくされています。
 8歳で被ばく。現在81歳の人の言葉でいいなと思ったのは、『だれかに話すことで、こころを軽くする』人に話せば、楽になれます。
 『脳裏から離れないあの子の眼(め)』かなりきつい作品です。こちらをにらんでいるように見ている少年の強い視線がありますが、彼はすでに亡くなっています。むごい。
 『再会』文章にもあるとおり、きれいな青空が広がっているのに、地上には苦しみ、そして、再会時の強い喜びがあります。娘と父親は、再会は果たしたものの、お父さんは、翌々年のお正月に原爆症で亡くなっています。原爆の放射線が人間の細胞を壊します。
 最後に思ったことは、『絵画に心を育ててもらう』

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