2025年05月14日

ローカル路線バス乗り継ぎの旅W 那智の滝から犬山城

土曜スペシャル ローカル路線バス乗り継ぎの旅W 第5弾 和歌山県那智の滝から愛知県犬山城 テレビ東京 TVer(ティーバー)とか、ネットもテレ東とか。

高木菜那(たがぎ・なな):今回のリーダー。スピードスケートオリンピック銀メダリスト
野口啓代(のぐち・あきよ):スポーツクライマー。東京オリンピック銅メダリスト
雛形あきこ:女優、タレント。超能力を身につけたアスリートふたりがいるので、雛形あきこさんがそこに加わって、メンバー的に、だいじょうぶだろうかと心配しましたが、ふりかえってみれば、あの、のらりくらりの蛭子能収(えびす・よしかず)さんがレギュラーで長期間やっていた三泊四日のバス旅番組ですからだいじょうぶでしょうという気持ちで見ていました。雛形あきこさんは、よくスーパーウーマンふたりについていかれました。挑戦は成功しています。

 今回まわった地域が、わたしも知っているところなので、ルート取りをどうするのかとか、興味をもちながら見ていて楽しめました。
 名古屋市内には、入らないほうがいいとずーっと思っていましたが、名鉄バスセンターに入ってしまいました。そのルートだと、近そうで、そうじゃないのです。三重県内から北へあがったほうがいいと、何度も思いながら、見ていましたが、なんと、三人さんは、名古屋市内を北上して、なんとかゴールの犬山城へ到着されました。すばらしい。
 わからないものです。チームは、ルート取りや、時刻に間に合わないなど、失敗もあったのですが、最後は、目標を達成されています。おみごとでした。人生と似ています。失敗してもだいじょうぶなのです。

 ゴールの犬山城は、先日、出川哲朗さんの充電バイクの旅で見たばかりです。
『出川哲朗の充電させてもらえませんか? 岐阜県五宝滝から三重県なばなの里への旅 テレビ東京 TVerとかネットもテレ東とか
岐阜&愛知&三重の“名城街道”125キロ!美しき五宝滝から国宝“犬山城”通って絶景イルミネーションの“なばなの里”へ!ですが井上咲楽&たんぽぽ川村は食べまくり!ヤバいよヤバいよSP
 ゲストの井上咲楽(いのうえ・さくら)さんが、犬山城天守閣のバルコニーみたいなところで、木曽川を眼下(がんか)にして、広い平野や山のてっぺんにある岐阜城などの絶景を楽しんでおられました。

 映像を観ていて、紀伊半島の山奥にある温泉地でも、外国人観光客が多いなあと感じました。
 
 大和八木(やまとやぎ)とか、橿原神宮(かしはらじんぐう)、高松塚古墳がある明日香(あすか)地方、奈良市内などは、仕事で悩める40代のときに何度も通いました。あっちのお寺、こっちの神社と願い事のお参りばかりをしていました。なつかしい。
 リタイヤして、仕事の悩みがなくなって思ったのは、この世には、神さまとか仏さまというのはじっさいには存在しないけれど、存在するものとしてがんばると、いい結果が出るということでした。
 バス旅の映像をながめながらそんなことを考えました。

 むずかしいルート選択が何度もあります。
 そして、どちらのルートを選んだとしても、不安なルートなのです。そこまでは、いける。だけど、その次の路線バスがあるかどうかはわからない。なければ、長距離を歩くことになります。夜中でも歩きます。
 江戸時代の街道を思い出して、街道のルートに寄りかかるように進むと、うまくいくということはあります。

 昔の太川陽介さんたちも動き回ったようなルートですが、当時はあった路線バスが廃止になっていることも多々あります。(たまたま、5月12日月曜日午後7時のBSテレ東の放送で映像を見ていたら(太川さん・えびすさんのバス旅の再放送です)。ゲストの加藤紀子さんと3人で、長さが800mもある木曽川大橋を歩いて渡るシーンがありました。2012年(平成24年)のことです。今回の女子3人旅のこの番組でも、同様に3人さんが同じ橋を歩いて渡って行かれました。長島スポーツランドのそばにかかっている長くて大きな橋です。長島スポーツランドは、50年ぐらい前は熱帯植物園だったような記憶です。職場の独身寮のメンバーで、バスに乗ってハイキングみたいにして遊びに行った記憶があります。
 また、どちらの番組も名古屋駅周辺の景色が映像に出るのですが、2012年(平成24年)の風景と現在の風景はさまがわりしています。太川陽介さんたちの映像には、建て替えなどで今はもうなくなってしまったビルや構築物が映っています。時代が変わるように、風景も変わってしまいました。
 
 女性三人さんは、明るい、若い、元気がいい!
 なんか、けなげだなあ。
 けなげ:心がけがいい。

 雛形あきこさんのファンですと言って、親切にしてくださった男性がいい人でした。(雛形あきこさんは)結婚されたから……という話のところがおもしろかった。

 終わってみて、バス旅は、『頭の訓練』、『体力勝負』、『失敗はある。でも達成はできる』という定義が良かった。
 定義(ていぎ):存在することが大事である価値  

Posted by 熊太郎 at 06:35Comments(0)TrackBack(0)

2025年05月13日

わたしは食べるのが下手 天川栄人

わたしは食べるのが下手 天川栄人(てんかわ・えいと) 小峰書店

 タイトルを見て思うのは、拒食症の学生さんのお話だろうかということでした。中学生向けの児童文学です。
 本の帯やカバーに書いてある文章を読んで、まだ読み始めていないのですが、ふと思うのは、働いていた頃、大卒新人に悩まされていたことでした。

 どうやったら、こういう人ができあがるのだろうかというような新人を複数見ました。
 自分のなかでは、「長男さん」「長女さん」と名づけていました。
 いつでも、どこでも、だれかが、自分のことを、ただで助けてくれると思い込んでいるのです。
 親や先生たちが、本来自分でやるべきことをやってあげていたのでしょう。
 お客さま気分なのです。
 自分の頭で考えないのです。質問ばかりです。他者に判断させます。もうつきあいきれないと思ったことが何度もあります。プライドは高く、気に入らないことがあると、仕事を辞めると言うのです。
 そんなふうになるこどもさんのことが書いてあるのだろうか。(読み続けていたら、180ページに、『カホゴ(過保護)』という言葉が出てきました。(やっぱり)

 これから読みますが、食べたら吐いてしまう人のことが書いてあるのだろうと察しがつきます。
 なんというか、食べる前に、自分で料理をつくることを発想してほしい。サービスの受け手ではなく、提供側の気持ちになれば、食べたものを吐くなんてことはなくなると思うのです。(このあと、読み続けていたら、115ページにごはんをつくる話になりました。それでいい)
 それも、植物なら種を植えるところから、家畜なら育ててさばくところから考える。その次に、料理の方法です。
 食べ物に感謝するとか、料理の手法に凝る(こる)とか、そういう基本的なことからやれば、食べたものを吐くなんていう行為はできないと思うのです。
 別の本になりますが、『食堂かたつむり 小川糸 ポプラ社』では、言葉を失った(精神的なもので口がきけなくなった)シェフの倫子(りんこ)さんが、エルメスと自分で名付けたブタを愛情込めて育てて、最後に自分で捌(さば)いて食べます(殺して包丁で切り分ける)。吐いたりしません。自分がつくる料理になってくれた、ブタのエルメスに感謝するのです。

 もし吐くのなら、吐かないために、自分で料理をつくってほしい。今ちょうど、NHKドラマで、『しあせは食べて寝て待て』というドラマを毎週火曜日の夜10時にやっています。薬膳を素材にしたドラマです。薬膳(やくぜん):健康のための食事

 まあ、読み始めてみます。
 中学生女子である葵という人物と咲子という人物が、かわるがわるに語る形式になっています。
 
小林葵:鳴橋中学校1年1組。1組の隣に保健室が位置している。葵は、保健室の利用者となる。保健室の先には、給食室がある。葵の身長は低い。手足は細い。小鳥みたい。髪は、猫っ毛(猫の毛のよう。細くて柔らかくて少ない)。弱そうな子に見える。存在感が薄い。
 葵の母親がおかしい。SNSの投稿をしているらしく、スマホで料理を撮影して投稿することに熱中していて、家庭や子育てのことがおろそかになっている。家族のようすより、フォロワーの数が気になる人です。母親は、料理教室の先生をしている。
 なお、保健室には、食料が常備してあるそうです。

遠藤咲子:中学1年生。ストレートヘア。背は高い。足が太い。骨太の体格。のっぺりしている。(立体感がなく平板(へいばん)に見える)。お尻がまるっこい。やせたい。学校は午後から登校する。給食がイヤ。半分登校拒否気味。親は放任主義(やりたいことをやらせてくれるが、ほったらかし)。小学生の頃、バレエ教室でバレエを習っていた。バレエでは、太ってはいけない。

遠藤咲子のママ:若くてきれいな女性。細い体。足も細い。やせている。パパにとってのアクセサリー(付属物。パパが自慢するときの付属物のような存在)。ママは、高度な知識はもちあわせていない。パパのお飾り。ママは、ここ数年、包丁を持ったことはない。料理はしない。

遠藤咲子のパパ:浮気をしている。娘の咲子はパパが浮気をしていることを知っている。パパは、仕事を理由にして、月に数回しか自宅に帰ってこない。愛人宅にいるのでしょう。

紗衣:クラスメート。小林葵の髪を編む

ゆかり:クラスメート

キッカワ先生:橘川拓真。栄養教諭(給食の栄養管理担当)。30歳ぐらい。すらりとした細身。暑いのに(9月上旬)、スタンドカラー(襟(えり)が立っている)の黒シャツの上に、長袖の白衣(はくい)を着用している。塩顔(しおがお。あっさりとした顔立ちで、スッキリとした目元(めもと)、鼻は高い、色白、全般的に顔のパーツ(部分)が控えめ(ひかえめ))。能面(のうめん)みたいで無表情。韓国アイドルみたいな顔。(葵が付けたあだなが、「陰陽師(おんみょうじ。平安時代の占い師)」

給食調理員のおばさん(うちの小学生男の孫が、今年度は、クラスの給食委員になったことをふと思い出しました)

朝野先生:担任

久野浩平:中学校1年1組の生徒。ニックネームは、コッペ。コッペパンが由来。給食をたくさん食べる。料理上手(じょうず)、包丁さばきがうまい。父親は心の病気をかかえて、夜勤をしている。母親はパートだが、妊娠している。浩平が料理をつくっている。近くに住んでいる祖母の年金収入に頼っている。

黒岩先生:中学校の養護教諭。めがねをかけたおばあちゃん先生。優しい。されど、生徒との適度な距離感は保っている。

保健室:田んぼの、「田」の字のように区分けされて利用されている。入口の左:診察室 入口の右:生徒が自由にすごせるスペース 入口の左奥:黒岩先生の事務スペース 入口の右奥:カーテン付きのベッドがふたつ。遠藤咲子は保健室を、『避難所』と呼んでいる。

 保健室の表現について、類似する設定の小説がありました。
 『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
 名取佳純(なとり・かすみ):定時制高校1年生。3人家族。母と姉。父親は、佳純が7歳のときに家を出て行った。母親がおかしい。姉と妹を比較して、妹を差別する。佳純は中学時代不登校になった。中学3年生からリストカット(カミソリで手首を切る。自殺企図だが死ねない)を始める。定時制高校では、名取佳純は、5月23日から保健室登校になり、3週間が経過している。教室は1A。
定時制高校を火星とし、ハブ(火星基地。人間が呼吸補助用具なしでいられるエリア)を保健室とする。名取佳純は、ハブでしか、呼吸ができない。名取佳純は、EVA(エバ。宇宙服)を着て、教室に行く。決死の覚悟がいる。

佐久間:定時制高校保健室の先生。養護教諭。読んでいて最初保健師かと思いましたが、元看護師でした。いろいろわけありです。髪を真っ赤に染めている。30歳より上ぐらい。

 さて、話を戻します。給食のシステムです。30分間(配膳(はいぜん)、食事、後片付け)
 まず全員分、同じ量を盛り付ける
 受け取った生徒は、食べられない量のときは、食べる前に、食缶(しょっかん)に戻す。
 食べ始めてから、担任の朝野先生が、食缶に残っているおかずを、食べるスピードが早い生徒の器に入れて回る。おかずを完食することが目的です。
 
『めざせ完食月間(9月15日~10月15日)』、各学年で、一番残食量が少なったクラスへの商品が、「好きな給食のおかずリクエスト権」です。(市原隼人さんの給食の映画を思い出しました)『劇場版 おいしい給食 Final Battle 邦画 2020年公開』
 わたしはふと、小学6年生のときに自分が、クラスで給食委員をしていたことを思い出しました。
 おかずの食べ残しが多かったときに、給食室に呼ばれて、給食のおばさんに叱られたことがあります。食べ物はのこさない。『もったいない(ムダにしてはいけない)』の時代でした。食欲がなくても食べなければならない時代でした。遠因は、第二次世界大戦の敗戦による貧困生活でしょう。

油淋鶏(ゆーりんちー):揚げた(あげた)鶏肉(とりにく)に、醤油(しょうゆ)を下地(したじ)につくった甘酸っぱいソースをかけた料理

シンク:台所の流しの水槽(すいそう)

会食恐怖症:かいしょくきょうふしょう。精神疾患。他者との食事がストレスになる。学校給食の完食指導が原因ともいわれている。

禁止されているスマホを中学校の保健室に持ち込んでいる遠藤咲子です。
スマホは中学校には持ち込まないほうがいい。スマホを持ち込むと、不幸せが近づいてきそうです。

豪胆(ごうたん):度胸がある。ピンチに動じない。
社交不安症:以前は、対人恐怖症とか赤面症(せきめんしょう)と表現されていた。人の視線がにがて。

 登場人物のセリフが、一本調子な感じがします。(いっぽんちょうし。発声者が複数いても、おなじ感じ。単調)

 読んでいて気になるのが、『咲子ちゃん』の、『ちゃん』の部分です。いらないのではないか。『咲子』だけのほうが、読みやすく、文章が締まります。『葵(あおい)』のほうは、ちゃん付けがありません。読みやすい。

 イヤなことはイヤ、できないことはできませんと言いましょうというアドバイスがあります。『私は食べたくないんです』。なんというか、基本的なことに戻って、彼女たちは、おなかはすいていないのだろうか。食欲はないのだろうか。おなかがすくほど、体を動かしていない。勉強に精神が集中していないともとれます。人間、腹が減ったら、食事をします。

エキセントリック:風変り。普通とは違う。

 食べたくなければ食べなくてよいとか、(学校に)来たくなければ来なくて(こなくて)いいとか、その言葉に従うと、置いてきぼりにされます。存在なしの扱いになります。
 学校とつながりがあるうちはいいですが、学校とつながりがなくなると、はるか長い人生をひとりで生きることになります。ひきこもりです。日本には、1億人以上の人がいるわけですから、そういう人もいるのでしょう。なにせ、本人がその気にならないと、ひきこもりの解消はむずかしい。

ラマワティ:中学のクラスメート。インドネシア人。ムスリム(イスラム教徒)。口に入れてはいけないものとして、豚肉、アルコール。給食に食べてはいけないものが出るときは、自宅からお弁当を持参している。

ハラール:イスラム教徒でも食べることができる料理。ハラール:許されたもの。ハラーム:禁じられたもの。

チキる:臆病(おくびょう)になる。弱腰になる。

 なんというか、給食ごときで、こんなにごたごたしなければならないとは思えない。

 栄養教諭の橘川先生VS遠藤咲子と小林葵(女子ふたりは給食の時に、いったん自分の器(うつわ)に盛られたおかずを、全部、食缶に戻して、給食を食べなかった)です。
 橘川先生が言うには、彼に対する宣戦布告だそうです。

ビビンバ:韓国の混ぜご飯

教育委員会からの指示:食品ロス(食べ残し)の削減を目標にする。
SDGs(エスディージーズ):持続可能な開発目標。バランスのとれた社会をつくる。

 80ページにある項目の意味がとれません。「物言わぬは腹(はら)ふくるるわざなり―葵」。
 (黙っていれば、おなかはすかないということだろうか。給食に文句を付けているということだろうか。よくわかりません)

 親に対して、不満を吐き出す(はきだす)。

 給食に不満がある。給食の内容に不満がある。(そうかな。まわりに人の目があるから食べるときに緊張するわけだから、給食のおかずを攻撃対象にするのはおかしい)

 給食に不満があるから、『要望書』を出す。発起人は、小林葵と、遠藤咲子と、ラマワティ・ハサナ・ アプリヤニ(インドネシア人。イスラム教徒)です。
 要望書の趣旨として、完食を強制しないで(この項目だけでいいんじゃないかな)、給食をなくて弁当にしてほしい(それでは困る人もいます。コッペくんは困るそうです。久野浩平くんです)、ハラールのメニューにしてほしい(してほしくありません。豚肉を食べたいです)、カロリーの低いメニューにしてほしい(イヤです)、食べやすいメニューにしてほしい(多数の児童に提供するものです。お金をその場でいただく食堂ではありません)

 なんというか、中学生ですから、考え方にかたよりがあります。
 働いて給料をもらっていないためか、世の中の仕組みをまだ知りません。まあ、税金も納めていません(消費税は払っているでしょう)。
 『給食』という制度で、大きなお金が動いています。『給食』という制度で、給料をもらって、生活をしている人たちがいます。農業、運送業、サービス業、たくさんの人たちが、『給食』に集まっているのです。簡単に廃止はできません。『給食』を廃止するなら、職を失う人たちのあとの仕事のことも考えなければ、世の中は混乱します。
 さらに、『給食』には、税金の投資もあります。学校が保護者から集める給食費だけでは、給食の提供はできないでしょう。公費負担です。税金には、経済を循環させる役割があります。お金は使うことで人間の生活が豊かになるのです。お金をため込むだけでは、経済活動は回っていきません。
 
 なんだかんだありますが、それも、在学中だけのことです。
 卒業式は、あっという間にやってきます。
 メンバーが入れ替われば、また、同じことの繰り返しです。

 学校だから、先生なりが相手をしてくれます。
 社会に出たら、仕事場は冷たいものです。
 イヤならさよならです。会社、辞めて(やめて)ちょうだいです。
 ふつうは、給料がなくなって、生活していくことができなくなります。
 簡単に仕事を辞める人は、親の援助があるのでしょう。自立も自活もできていません。

 さて、要望書を書いた3人はどうなりますやら。

クレポン:インドネシアのお菓子。だんごのようなもの。緑色をしている。噛むと黒砂糖が口の中でとける。
 遠藤咲子は、クレポンを、がばがば食べました。

 『東京サラダボウル』というNHKのドラマ(警察ものでした。新宿あたり、東南アジア諸国の料理が出てきます)を思い出しました。前回の冬ドラマでした。
 それから、『しあわせは食べて寝て待て』という、薬膳(やくぜん)を素材にしたドラマが、今、NHKで、火曜日の夜10時に放送されています。なかなかいい感じのドラマです。膠原病(こうげんびょう。免疫(めんえき)が自分で自分の体を攻撃して内臓が壊れる)になって、大きな会社にいられなくなった主人公の女性が、競争しない世界で、食事を楽しみながら、静かに暮らしていくのです。

レジスタンス:権力者に対する抵抗運動

 給食のつくられかたを知る。あるいは、学ぶそうです。
 日曜日、午前10時、県営グランド集合だそうです。

ハミる:仲間はずれにする。仲間はずれにされる。(はみ出すということだろうか)
ダウンタイム:サービスを利用することができない時間帯
ヒアル:ヒアルロン酸。美容注射
モスク:イスラム教の教会
クルアーン:イスラム教の経典。コーランのこと。神の啓示(けいじ。神の教え)

 スタジアム(陸上競技場)の調理室で、大学陸上部員が食べる昼食をつくる。
 
アスリート:運動能力が優れた(すぐれた)スポーツ選手

 たくさん食べるのではなくて、正しく食べる。

栄養食事学:人間が、健康で豊かな食生活を送るために学ぶ学問

(最後まで読み終えました)

コッペ(久野浩平)の弟::久野修平。5歳くらい。

コッペの母

コッペの妹:久野奈美。最初は、母親のおなかの中、最後に誕生します。

 ところどころ、単語の意味がわからない難点がありました。書き手はわかっていても、読み手には理解できません。
カショオ:過食症ということでしょう。いっぱい食べて、いっぱい吐けば、体重は同じという感じ方だそうです。心の病気ですな。
マルタバ:インドネシア版お好み焼き
摂食障害(せっしょくしょうがい):適度な量の食事を自分でコントロールしながら食べることができない病気。精神的なストレスが原因。物語に出てくる小林葵と遠藤咲子には、どのような精神的ストレスがあるのだろう。過食をする遠藤咲子は、両親の夫婦関係がおかしいとか、お手伝いさん付きの豪邸に生まれて、生活の送り方がふつうと違うとか、やせなきゃいけないという自分への脅迫があります。小林葵の精神的ストレスの原因は明記されていません。生まれつき食が細い。精神的に人がにがてというのはありそうです。

 イスラム教信者のラマワティは、豚肉を食べられないのではなく、豚肉を食べたくないだけ。豚肉を食べたいという気持ちがない。犬を食べたいという気持ちがないのと同じ(なるほど)。

 遠藤咲子が過食する食べ物です。菓子パン、スナック菓子、カップ麺、ポテトチップス、バームクーヘン、どら焼き、シュークリーム。お金持ちにしては、栄養面でむちゃくちゃです。食事をちゃんと自分でつくればいい。目玉焼き、卵焼きから始まって、カレーライス、サンドイッチ、ホットケーキ、お好み焼き、やきそば、パスタ、焼き肉、焼き魚、野菜炒め、いろいろ簡単につくることでできる料理はあります。自分好みに味付けの工夫をすると楽しい。おいしいと嬉しくなります。

 遠藤咲子の自宅は豪邸です。シャンデリアがあります。パパはお金持ちで、ママは、パパの装飾品扱いの人物です。以前は、お手伝いさんを雇っていたそうです。そして、パパには愛人がいます。まあ、お金があっても幸せとはいえません。

 『給食改革』の話になっていきます。
 小林綾子は、脂っぽい(あぶらっぽい)もの、食べごたえのある食べ物がにがてだそうです。

クラムチャウダー:スープ。二枚貝(クラム)を使ったもの。
タンドリーチキン:鶏肉(とりにく)を土釜(つちがま)で焼いたもの。
シュガーグレーズ:薄い砂糖衣(さとうころも)。ドーナツの表面につけたりする。
 
 給食への反発がありますが、やがて、給食の価値、給食が栄養面で、きちんとしてものであることを理解し始める中学生たちです。
 
 家が貧困家庭である久野浩平の話を聞いていると本を一冊思い出します。写真集です。
 『土門拳(どもん・けん) 筑豊のこどもたち(ちくほうのこどもたち) 築地書館(つきじしょかん)』
 小学校の給食のときに、お弁当をもってくることができないこどもたちの白黒写真が載っています。むかーしあった、福岡県の炭鉱町での話です。貧困があります。同書の72ページ~74ページに、お弁当を持参できないこどもたちは、机に座って本を読んでいるふりをしています。そのまわりに、お弁当を食べているこどもたちがいます。(わたしの机で、左のほうにある本箱にその本があります)

 小林葵は母親と自宅で、ジャガイモコロッケをつくり始めました。
 
 なんというか、包丁で指を切ると危ないからとかいって、こどもに包丁を握らせないのはだめです。
 人間、指を切ると痛いけれど、指のかすり傷ぐらいで、人間は死にません。
 過保護はだめです。失敗してもいいのです。自活できるようにこどもを育てなければなりません。

 栄養教諭(給食の栄養管理担当)橘川先生(きっかわ先生)のいい言葉がありました。
 『…… みんな、喉(のど)に何かつかえたままで、生きているのかもしれませんよ』(そのとおりです)
 もうひとつ。
 『たかが食事です』

回鍋肉(ホイコーロー):中国の豚肉料理。ゆでて、いためる。
ナシクニン:インドネシアのお祝い用のごはん。黄色いごはん。

 最後は、暴風雨の中のエピソードでした。
 炊き出し体験があります。
 『人は、生きるために食べる』

 給食改革プロジェクトです。(正直、なんでこうなるのか、よくわかりません)
 
ナシゴレン:インドネシアのチャーハン

 いろんな騒動があって、いろんな変化があります。
 遠藤咲子の両親は、離婚へ向かっているそうです。
 
 ガトーショコラ:チョコレートケーキ

 まあ、いろいろあります。
 うわべだけ美しくしようとしても、中身はボロボロということはあります。
 ありのままに生きることができたら、苦労は小さいに違いない。  

Posted by 熊太郎 at 06:25Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2025年05月12日

対岸の家事 第6話 “(女性が)働かない”はダメ?

対岸の家事 第6話  TBS火曜ドラマ 22:00~22:57 動画配信サービス

第6話:“(女性が)働かない”はダメ?人生の選択肢

原作:『対岸の家事 朱野帰子(あけの・かえるこ) 講談社』

俳優:
多部未華子(専業主婦。村上詩穂。娘が、苺(いちご)2歳半ぐらいに見えます。調べたら3歳の子役さんでした。もうすぐ4歳です。かなり演技がうまい)

一ノ瀬ワタル(村上虎朗むらかみ・とらお 多部未華子さんのだんなさん役。かなり優しい性格です)

江口のりこ(長野礼子。こどもふたりを保育園に預けて働いている。だんなの長野量平(川西賢志郎)は仕事で多忙なようす。実質ひとりで子育てと家庭のきりもり(物事をとりさばく)をしているように見えます。息子が、篤正(あつまさ。4歳か5歳ぐらいに見えます)で、娘が、星香(ほしか。まだ1歳半ぐらいに見えます)

ディーン・フジオカ(中谷達也。妻はアラブ首長国連邦都市型国家であるドバイで働くキャリアウーマン。中谷達也本人は、厚生労働省の職員)。中谷達也は、2年間の育児休業中です。娘は1歳ぐらいの佳恋(かれん)です。

 いくつかポイントがあります。頭の中を整理するように、書き落としてみます。

 今の時代、女性は、専業主婦ではだめです。女性は、仕事も育児も両立させて、社会活動に貢献してくださいというメッセージがあります。
 それに対して多部未華子さんが、自分は、働かないのではなくて、ふたつのことを両立させる能力がありませんと反発します。働けないのです。能力的に、家庭と仕事の両立ができないのです。(なんというか、大前提として、人は、生活費を稼ぐために働きます。わたしは、妻が働かなくても家族が食べていけるのなら、働かなくていいと思います。うちは、わたしの給料だけでは食べていけなかったので共働きで子育てをしました)

 一馬力(いちばりき。夫だけの収入)だと、将来分譲マンションや一戸建てを買うとか、こどもを大学にやるとかいうときにお金が不足します。そのときになって、それなりの精神的な苦痛を味わうことになるのですが、それでもいいのなら働かなくていいと思います。
 あとはまあ、こどもさんが10歳ぐらいになって、自分のことが自分でできるようになったら、働きに出るという選択肢もあります。
 
 ロールモデル(女性が働いていくときに、模範となるような社員のことをいう)
 昔は、朝早く出勤して、夜遅くまで残業をやって、休日も出勤してという社員が、出世では優遇されたけれど、今、そして、これからは、仕事と子育てを両立させていく女性が、昇進においても優遇されるであろうというドラマの趣旨でした。
(この部分を読んでいて、以前読んだことがある小説の内容を思い出しました)
 出産・子育てをしながら働いてきた女性が、結婚も子育てもせず、仕事一筋でやってきて役職に昇進した女性にくってかかったのです。家事も育児もやって働いてきた自分だって、昇進して役付きになりたいと訴えるのです。自分は、女だから(しかたなく)、結婚して、出産して、子育てをしながら、がんばって仕事をしてきた。がまんをしながら仕事も育児も家事もやってきた自分こそが、職場では役職者になるべき立場の人間だと訴えるのです。その女性は未婚で昇進する女性に対して厳しい言葉をぶつけます。あんたは、仕事しかしてこなかった。仕事しかしてこなかったから、あんたには、家族がいないじゃない! 夫もこどもも孫もいないじゃない! わたしにはいる! と、激しい気持ちが出ていた記憶です。
 わたしは、その部分を読んで、目から鱗(うろこ)が落ちる思いでした。そうか。そうなんだ。うん、そのとおりだと思いました。
 昔は、未婚で仕事に集中して、それなりに幹部社員になった人を、自分の人生を会社に捧げた(ささげた)女性というように見ることがありました。よーく考えると、それは、いい考えではなかったようです。仕事よりも家族が大事です。歳をとってからのひとりぼっちは精神的にこたえます。

 ディーン・フジオカさんから奥さんに、ふたり目のお子さんについて、計画出産をやろうと提案があります。奥さんは、自分の仕事の予定があるからと、提案を拒否しました。
(わたしは、計画出産はやっていいと思います。今は、育児休業の制度がありますが、育児休業の制度がなかったころは、産休明けで、4月に保育園に入れるようにするために2月生まれぐらいで子づくりをしようかというような話はありました)

 ラスト付近では、いろいろと騒動の種がまかれました。夫の鹿児島転勤(単身赴任ですな。母子家庭状態になってしまいます。江口のりこさんのお宅)、妻の不倫(ディーン・フジオカさんのお宅)、頼りにしている女性が、認知症になっているらしい(多部未華子さんのお宅)。そんな話題で、次週に続きます。

 同時期に、テレ東で、『夫よ、死んでくれないか』というドラマをやっていて見ているのですが、ホラー、サスペンスの内容で、夫婦関係が壊れています。殺人の話も出てくるので、とくにそのドラマの感想を書く予定はないのですが、このドラマと対比すると、いろんな夫婦関係や家庭があるなあと感慨深いのです。  

2025年05月10日

コーダ あいのうた アメリカ映画

コーダ あいのうた アメリカ映画 2022年(令和4年) 1時間51分 動画配信サービス

監督:シアン・ヘダー

 先日読んだ本から、この映画に来ました。
『「コーダ」のぼくが見る世界 聴こえない親のもとに生まれて 五十嵐大(いがらし・だい) 紀伊国屋書店』です。
コーダ:Children of Deaf Adults チルドレン(こども) オブ デフ(聴覚障害者) アダルト(おとな) 『聴覚障害者を親にもつこどもさん』という意味にとらえました。当事者ではないわたしには、たいへんだなあと思えるのですが、本を読むと、本人たちにとってはたいへんでもなさそうなのです。なのに、なんで悩むかというと、『障害とか障害をもつ人に理解がない一般人の心もち』なのです。人の目が気になる。標準でない物を差別する意識が人間にはある。同情は迷惑、そんなことが出だしに書いてありました。
 生まれてきて、自分の親の耳が聞こえないという状態が、苦痛ではない。(それなりに順応して、ほぼスムーズに日常生活を送れるという人間のすばらしい能力があるのです)。自分では、あたりまえだと思っていた生活が、小学校に入ると、あたりまえではないということに気がついてショックを受けた。そんな苦労が書いてありました。
 そして、耳が聞こえない親・きょうだいをもつ耳が聞こえるこどもは、親たちと耳が聞こえる人たちとの間をつなぐ、『通訳』の役割を、小さい頃から果たし続けているのです。本人にとっては、その行為は苦痛ではないけれど、自分がなにかをしたいという時間は、通訳仕事のために消費されていきます。そこが悩みです。自分には、自分はこうなりたいという夢があります。そのためには、時間が必要です。こちらの映画は、そのような状況を描き出していました。

 さきほどの本の中で、映画作品が紹介されていました。
 『聲の形(こえのかたち)』:アニメ映画作品。こどもたちの世界です。聴こえないということで主人公である、ろう者(耳が聞こえない人)の少女がいじめられます。
 もうひとつが、今回観た映画です。
 『コーダ あいのうた』:2022年公開の洋画
 さらにもう1本あります。さきほどの著者の生い立ちを追った映画でした。
 『ぼくが生きてる、ふたつの世界 邦画 2024年(令和6年)』です。こちらの本の著者の家族が主人公の映画です。映画のスタートは、無音です。ろう者の世界ですから、音のない世界で、主人公のお父さんが、漁船の船体にブルーの塗料を塗る作業をしています。それが、お父さんの仕事です。
 今回観たこちらの映画、『コーダ あいのうた』でも、冒頭は、漁船のシーンです。海原を走る漁船です。映画の主人公の家族が乗船して、魚を捕っています(とっています)。両親と兄が、耳が聞こえません。妹が主人公です。妹は耳が聞こえます。いろいろあります。映画が始まりました。

 4人家族は、おもに、手話で意思疎通をします。いしそつう:気持ちや考えを伝えあって、理解し合う。家族仲はとてもいい。

主人公女子高生 ルビー:17歳。耳は聴こえます(きこえます)。家族の中で自分だけ聴こえるということが苦痛であったりもします。

父親:耳は聴こえません。いいオヤジさんです。夫婦仲がとてもいい。下ネタ満載で笑いました。

母親:同じく耳は聴こえません。若い頃、ミスコンテストで優勝したことがある。スタイルに自信がある。口やかましい。夫と同じで、下ネタ大好きです。映画のラスト付近で、自分の娘であるルビーが誕生した時の自分の気持ちを語ります。話を聞いていると涙がにじんできます。

兄:耳は聴こえません。父親といっしょに漁船に乗って魚を捕りに行きます。捕った魚を、市場で仲買業者に買い取ってもらいます。そのお金で家族は生活していきますが、生活費に余裕はありません。魚は相場よりの安く買い取られるからです。(障害者差別があるようです。なめられている)。
 兄は、スマホを使った出会い系サイトでがんばっています。

 登場人物たちが、生き生きとしていて、輝くように動いています。手話シーンも生きています。

 いじわる。いじめがあります。
 『(高校で、実家が漁業であるルビーの噂(うわさ)ばなしとして)魚臭くなあ~い』

 白人の人たちの映画です。

 <合唱部>が出てきました。
 NHKのコンテストのようでもあります。(NHK全国学校音楽コンクール)
 
 4人家族についてです。非常におもしろい家族です。
 いんきんたむし話から始まってのくだり(つながった話)に大笑いしました。コメディ映画です。ぜんぜん深刻ではありません。今年観て良かった1本になりそうです。
 
 手話がいっぱいです。いいなあ~
 みなさん芸達者です。芸達者:演技がうまい。
 ろう者(耳が聞こえない人)の映画ですが、ミュージカルみたいです。
 
 お金がないという話が出ます。
 娘は音楽学校へ行って歌手になりたい。
 でもお金がない。
 奨学金に頼る
 でも、家族が漁業に従事していくうえで、耳が聞こえる娘には、『通訳』の役割を果たしてほしい。
 娘の夢を優先させるか、家業を優先させるか悩ましい。
 (なんというか、まずはお金を稼いで、それから夢をかなえるという方法もあります。人生は、若い頃に思うよりも、じっさいは、はるかに長いです。『学び』の時期は、標準よりも遅れてもだいじょうぶです)

 ろう者独特の発声の音が変だと指摘されます。ろう者の声は変(へん)。汚い声という話が出ますが、先生の反応は反対です。『それだ!!』、『その声を待っていた!』(いい感じです)
 声質の話が出ます。映画の中では、ボブディランの声は美声ではないと紹介されます。砂と糊(のり)のような声と表現されます。
 思い出した本が、『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社(なつはしゃ)』という本です。松本隆さんは作詞家です。
 本の中に書いてあったことです。
 歌い手の選び方です。写真は参考にならない。みんな可愛い。差異がわからない。声質で選ぶ。歌のうまいへたは、売れる売れないに関係ない。民衆は、おもしろい声を望んでいる。舌足らずなところが良かった歌手がいる。一見、欠点に見えても、そこが魅力だったりもする。合わせて、楽器が弾けることも魅力になる。(読んでいて、「木綿のハンカチーフ」をお歌いになった太田裕美さん(おおた・ひろみさん)のことだろうと思いました)。こちらの映画では、女子高生ルビーの声を聴いたコーラスの先生が、『君の歌に可能性を感じた』と表現します。

 さらに話をふくらませて書くと、その本の著者である山下賢二さんという人もユニーク(希少価値)です。
 『やましたくんはしゃべらない 山下賢二・作 中田いくみ・絵 岩崎書店』
 絵本です。読んだときの感想メモの一部です。この絵本では、小学生時代に学校ではしゃべらなかったという作者ご本人のことを絵本にされているそうです。絵本では、やましたくんについて、1年生から始まって、6年生になったころのことが書いてありました。
 つまり、6年間学校ではしゃべらなかったというような下地があります。(されど、小学校の卒業証書授与式のときにだれにも聞こえないぐらいの声で、名前を呼ばれての返事の発声はしたらしい)
 小学校を卒業して中学生になったらしゃべるようにしたそうな。しゃべらないと、おとなになったら困ります。仕事をしなければなりません。作者であるご本人は、その後、人前でもしゃべるようになられたようです。しゃべらなかった理由もありました。ネットで読みました。ここには書きません。まあ、ミステリーを含んだ推理小説のような要素もある絵本です。

 合唱部での歌の練習方法がおもしろかった。
 ハッハッハという声出しを、次のように変化させながらやるのです。
 小型犬の声、中型犬の声、大型犬の声、かなりおもしろかった。シング・シング・シング(歌え・歌え・歌え)です。
 
 ラップ、ドゥーワップ(リズミカルなハミング風なコーラス)、そして、ラブソングです。

 歌の発表会がありますが、ろう者の夫婦は、耳が聞こえないので、ステージで歌っている娘の歌声は聴こえません。
 ママが娘にお話しします。娘が生まれたとき、娘は、ろう者であって欲しかった。そうでないと、自分たち親は、娘に見捨てられると思って、さびしくなった。(ろう者であることで、生活が不便とは感じておられないのです)
 そして、娘はときに、自分もろう者であったほうが良かったと思ったことがあります。4人家族の中で、自分だけが聴こえるということで悩みます。聴こえなくても、生活していくことはできるのです。

 いい映画です。

 聴こえない世界があります。音のない世界です。
 相手の表情を一生懸命見ます。
 無音の時間帯が長い空間が映像とともに表現されました。
 (無音だったけれど)いいものを聞かせてもらいました。

 自分の思いどおりになる人生を送れる人は少ない。

 のどに指をあてて、のどの震えで、歌を理解する。

 歌唱指導の先生も良かった。生徒思いのいい先生です。

 大事なものは、『家族』です。
 歌を楽しむいい映画でした。
 ああ、映画を観たなあという気分になれました。
 失ったものもあれば、得た(えた)ものもある。毎日がそうやって過ぎていく。
 主人公の女子高生は、聴こえる世界と、聴こえない世界を行ったり来たりしている。
 いい映画でした。  

2025年05月09日

ぼくが生きてる、ふたつの世界 邦画 2024年

ぼくが生きてる、ふたつの世界 邦画 2024年(令和6年) 1時間45分 動画配信サービス

監督:呉美保(お・みぽ)
俳優:吉沢亮介(著者本人役。五十嵐大(いがらし・だい))、忍足亜希子(おしだり・あきこ。生まれつき音が聞こえない役者さんです。母親役)、今井彰人(いまい・あきと。生まれつき音が聞こえない役者さんです。父親役)、でんでん(母方祖父役)、烏丸せつこ(からすま・せつこ。母方祖母役)、ユースケ・サンタマリア(五十嵐大の勤め先で編集長役)

 原作本は読んだことがあるので、本の内容を思い出しながらの映画鑑賞です。
 『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐大(いがらし・だい) 幻冬舎』、2023年(令和5年)に読みました。

 映画のスタートは、無音です。
 ろう者の世界ですから、音のない世界で、主人公のお父さんが、漁船の船体にブルーの塗料を塗る作業をしています。それが、お父さんの仕事です。
 お父さんは、後天性聴覚障害者です。幼児期の病気が原因で耳が聞こえなくなりました。本にそう書いてありました。
 お母さんは、先天性聴覚障害者です。生まれつき耳が聞こえません。

 主人公である五十嵐大さんのベイビー誕生から始まって、(以下は、映画を観ているわたしの判断ですが)生後10か月ぐらい、3歳ぐらい、小学1年生ぐらい、10歳小学4年生ぐらい、中学三年生15歳、高校2年生ぐらい17歳ぐらい、高卒後、東京で就職、パチンコ店員というふうに、子役さんを変えながら成長していきます。
 途中、音が聞こえない両親とのなんだかんだ(夜泣きが母親に聞こえないとか、主人公がこどもですが、親とほかのおとなとの「通訳」の役割を果たします。本に書いてあったとおりの順番で出来事がつなげてあります。
 だんだん聴覚障害者である母親との関係がうまくいかなくなってきます。
 この映画では、母子関係に重点を置いてあります。
 周囲から奇異な目で見られるので、ろう者の母親には、小学校の授業参観には来てほしくない。
 ことに中学生になったときの反抗期は、お母さんが気の毒なほどこどもから責められます。
 学業に縁がなかった(高校入試)両親ですので、中学卒業後の進路決定とか進路相談がうまくいきません。
 将来に夢や希望をもてないこどもさんです。
 
 音のない世界がときおり表現されます。
 静かなアクションシーンです。
 『障害者の家に生まれたくなかった』(障害者でなくても、どこの家でもうまくいかない事情をかかえています)

 ろう者同士である両親の恋愛話があります。
 結婚に反対されて、駆け落ちして、結婚して、主人公が生まれた。大きな喜びがあった。
 ステキな手話の世界があります。(いいなあ)
 
 いろいろたいへんです。

 『コーダ』の説明はもっと詳しいシーンにしても良かったのではないか。
 本では、『コーダ』という言葉、存在を知った時に、著者の感動が大きかったと表現がありました。
 そこが、話の盛り上げどころだったと思うのですが、あっさりした説明で拍子抜けしました。

 ろう者の若い女子たちは元気がいい。明るい。そして、自立していて、自主的です。
 ろう者でも、自分でやれることはたくさんあります!
 障害者だからといって、同情も心配もされたくない。
 プライドがあります。人間の尊厳を傷つけないでほしい。

 5000円札が入った、お母さんからの息子を励ますお手紙には、胸が熱くなりました。

 映像を観ていたら、宮城県の塩釜あたりの架空の鉄道駅が出てきました。
 数年前に塩釜駅から歩いて15分ぐらいのところにあったお寿司屋でにぎり寿司を食べました。そのほかに注文した生ガキが大きくておいしかった。そんな、関係ないことを思い出しながら映像を観ていました。

 映画を観終えましたが、う~む。本を読んだ時のほうが、感動がありました。
 なにかしら、物足りなかった。
 本の帯には、『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてありました。
 コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてありました。

CODA(コーダ):Children of Deaf Adults 聴こえない親の元で育った、聴こえるこどもたち

 本は、『いつも、ひとりぼっちだった。』から始まります。この言葉が、著者の人生の前半を占めていきます。(しめていきます。時間を埋めていく)

 著者は障害者差別に直面しています。本の47ページあたりは、人間の強さと弱さ、もろさが表現されています。自分を差別した人間を許すことで、笑顔が生れています。

 著者と同じように聴覚障害の両親をもつ同級生女子が登場します。彼女は両親の聴覚障害を隠しません。あっぱれです。

 こちらの著者は、高校をなんとか卒業されて、母親を捨てる気持ちをもちながら東京へと旅立ちます。駅での母親とのせつない別れがあります。
 思春期のころの著者にはマザーコンプレックスの気配があります。そして、心が屈折しています。母親の温情がわからないばかたれでもあります。親の気持ちは、親になってみないとわからないということはあります。
 マザーコンプレックス:母親に対する愛着と執着がつよい。

 耳が聴こえない人たちのお誕生日会があります。あっぴーあーすでぃうーゆー:ハッピバースディトゥユー 拍手を表す手話:両手を上にあげてヒラヒラさせる。(音はしません) ステキです。  

2025年05月08日

聲の形(こえのかたち) アニメ邦画 2016年

聲の形(こえのかたち) アニメ邦画 2時間9分 2016年(平成28年) 動画配信サービス

監督:山田尚子(やまだ・なおこ)
原作:大今良時(おおいま・よしとき 女性)。漫画家

 先日読み終えた本が、『「コーダ」のぼくが見る世界 聴こえない親のもとに生まれて 五十嵐大(いがらし・だい) 紀伊国屋書店』です。
 両親ふたりともが、耳が聴こえないのです。(ろう者)
 ひとり息子の著者は、耳が聴こえます。
 著者は、音が聞こえない世界と聞こえる世界の橋渡し役を果たすのです。
 その本に、こちらの映画のことが載っていました。ただ、それほど詳しい内容ではありませんでした。

 実際に映画を観終えて、ろう者の世界を描いた作品というよりも、テーマは、『友情』というものでした。
 狭い世界の友情です。小学生、それから、成長して、高校生です。
 社会は広いし、人生は長い。
 学校時代の出来事は、人生においては、それほど意味をなしません。
 長い間生きてきて、わたしはそう感じるのです。

 さて、思い出しながら感想を並べてみます。

 タイトルで、『声』を、『聲(こえ)』としてあるのは、内容が、ろう者(耳が聴こえない人)を扱っているからでしょう。

石田将也(いしだ・しょうや):ガキ大将の小学生時代があります。ろう者の西宮硝子(にしみや・しょうこ)をいじめる。西宮硝子の補聴器を奪って捨てたりする。その後、高校生になってからの話になります。

西宮硝子(にしみや・しょうこ):ろう者。(観ていて、どうして、ろう者である西宮硝子が小学校の普通学級にいるのかが不思議でした)
 わたしは地下鉄の中で、たまに、聾学校(ろうがっこう)に通っている小学生のこどもさんたちを見ますが、みんな生き生きとして、表情は明るく元気です。当然、手話も使って、お互いに意思疎通(いしそつう)をしています。ニコニコ笑顔で、はしゃいでいます。意外と言っては失礼なのですが、にぎやかなのです。でも、声は出さないから静かではあります。
 映画では、高校生になった西宮硝子が出てきます。

 主人公男女がふたりとも、しょーたんとか、しょうちゃんなので、『しょう』が重なって、ちょっとまぎらわしかった。

 なんだか、元気がないアニメです。
 やわらかいとも表現できます。
 学校ものの物語は、狭い空間で、強制的に出校しなければならない拘束がある場所なので、重苦しい雰囲気になりがちです。
 就職してからの世界は自分で選択できます。自分と同じようなタイプの人間が集まった集団で、たいていは働きます。まあ、学校は、修行の場ですな。イヤイヤ行くのが学校です。学校は楽しくなくてもかまいせん。目標は、卒業です。卒業したら、広い世界で冒険です。
 千差万別な個性を、学校という空間1か所に固めるというのは、乱暴な手段のような気もします。こぶしを振り上げて、いじめっこと闘わないと、心の安定がおびやかされることもあります。

 障害者いじめが素材の映画だろうか。
 ただ、障害者同士の世界でもいじめはありますということが書いてある本を読んだことがあります。
 『累犯障害者(るいはんしょうがいしゃ) 山本譲司 新潮文庫』

 いじめられたほうは、いじめた人間のことを一生うらみ続けます。
 いじめられたほうは、チャンスがあったら、自分をいじめた人間に仕返しをしてやろうと思っている人もいます。
 社会に出たら、立場が逆転しているときもあります。
 上司が、こどもの頃に、いじめられていた人で、部下がいじめていた人という図式をじっさいに見たことがあります。いじめていた人は、痛い思いをされていました。
 人をいじめるときには、覚悟がいります。
 
 静かなアニメですな。
 なぜこんなに、BGM(バックグランドミュージック)がやわらかいのだろう。
 元気がない。

 石田将也に自殺願望があります。いじめっこだった彼は、人が離れていき、今は孤独です。いじめた人間はやがて、いじめられる立場に追い込まれます。
 石田将也は、周囲から存在を否定された状態になり、映像では、周囲にいる人たちの顔に、『×』が表示されます。けっこうたくさんの、『×』があります。(映画の最後ではこの×がとれるのだろうなと予想して、そのとおりになりました)

 高校時代になって、長束(ながつか)という男子生徒が登場します。いじめられっ子のポジションです。身長が低くてこ太り(こぶとり)という体格です。
 ただ、いじめられるようなタイプには見えません。いい奴(やつ)です。ちゃんと自分の気持ちを自分の言葉で相手に表現することができます。ちょっと変わっていますが、なかなかいい奴です。
 
 映画の中のメッセージとして、(障害者を相手にして)、サービスを提供する側に、やってあげている自分はいい人だという自己満足がある。偽善行為がある。(ぎぜんこうい。ニセものの善意。うわべだけ。本心ではない)
 その点を問題視しているシーンがときどき見られました。まあ、そういうことも現実にはあるのでしょう。

 友達の意味を問う映画です。
 う~む。なかなかむずかしい考察です。
 人それぞれでしょうが、『友情』は、絵空事に近いものがあります。(えそらごと:ありもしないこと)
 趣味が同じで、いっしょに遊ぶ程度の友だちはできるでしょうが、人生において身内のような関係の他人同士はなかなか成立しません。
 あえていえば、長年連れ添った協力関係がうまくいっている夫婦が、親友同士でしょう。

 男二人で、『ニャンニャンクラブ』に行ったら、ガールズ・バーか、キャバクラだと思っていたら、猫カフェだったという展開がおもしろくて笑えました。

 話に無理があるかな。
 小学生時代の出来事をひきずって今を生活している高校生というのは、いないなあ。

 恋という恋愛感情が湧いて、『ちゅき、ちゅ…き(好き)』を、『月』と聞き間違い、勘違いしたシーンがなかなか良かった。

 遊園地で遊ぶシーンは、絵を見ていて、三重県長島温泉にある遊園地が素材なのだろうと思いました。
 ジェットコースターは、『ホワイトサイクロン』でしょう。調べたら、改修されて2019年に、『白鯨(はくげい)』という名称に変わったそうです。
 昔、家族で長島温泉へ遊びに行ったときに、当時中学生だった娘にホワイトサイクロンにいっしょに乗ろうと誘われましたが、 2時間待ちだったので断りました。そのときのことを今は後悔しています。乗れば良かった。いい思い出になっていたと思います。

 まあ、友達という存在を求める映画です。
 なんか、むずかしいやりとりがあります。
 本音(ほんね)でぶつかるキャラクターたちです。
 暗い話になっていきます。

 世界が狭い。
 社会人になると人間関係が広がって、小学生のころや、学生のころのつながりは、たいていは切れていきます。
 新しい人たちと出会って生活していきます。
 物語は、学生の状態で、暗い話になっていきます。
 女子たちの言葉づかいが荒いことが気になります。
 きれいな言葉で話すと、「幸せ(しあわせ)」が近づいてきます。
 きたない言葉で話すと、「不幸せ(ふしあわせ)」が近づいてきます。

 話の後半に、花火大会をもってくることは、平凡な流れです。よくある設定です。

 ずーっと見てきて思うのは、ろう者である西宮硝子(にしみや・しょうこ)が、お人形さんみたいです。男目線でつくられた男性にとって都合のいい女性キャラクター(個性)に感じました。もっと、おっさんぽくてもいい。元気がなかった。

 お話の内容は、くどいかな。繰り返しが続きます。

 石田将也の心理状態は良くなっていきます。

 う~む。うわべだけの悲劇のような。
 なんかよくわかりません。
 なぜ、西宮硝子(にしみや・しょうこ)が、自殺企図(じさつきと)をしなければならないのか。そもそもなぜ、ほかのろう者とのつながりがないのか。
 年寄りのわたしには、心に響いてくるものがありません。
 『ちゅき、ちゅ…き(好き)』のシーンまでが良かった。
 
 なんかよくわかりませんでした。
 『ゴメンナサイ』が多かった。(多すぎたということです。映画は、強気であったほうが魅力的です)

 時間をかけてつくって作品であることは、よく伝わってきました。