有松の庄九郎 中川なをみ 新日本出版社 2013課題図書

 時代は1607年頃、舞台は現在の愛知県、ときの尾張藩主徳川義直の命令により、街道である東海道の安全確保のため、とある地(のちの有松)に入植者を募集するところから始まります。阿久比(あぐい)という地で暮らしていた庄九郎はじめ8人が手をあげて有松に住み着き、山林を畑地に変える作業から始めますが、農耕がうまくいきません。当時、名古屋城の築城が始まり、庄九郎は同城の土木作業に携わり(たずさわり)ます。庄九郎は、建築現場で出会った豊後の国(ぶんごのくに大分県)の男性から染物の手ぬぐいをお礼にもらいます。それが有松絞り誕生のきっかけです。
 400年前のことですから事実はわかりません。その点で、この作品は創作です。祖母から孫娘への伝承話という構成です。
 読み始めは、時代の比較から始まりました。作中では、ふるさとを離れる人たちと見送る人たちの悲しく淋しい別れが紹介されています。自動車も鉄道もなかった時代です。現在なら、有松と阿久比は遠くありません。高速道路を使えば30分もあれば行き来できます。交通機関の発達は、人間が体験する悲しみを少なくしてくれます。それがすべていいともいえませんが、わたしは賛成です。せつない別れはいい思い出としては記憶に残りません。
 次に考えたのは、各種施策です。
 役所との関わりがところどころに出てきます。役所は江戸時代、庶民の支配組織でした。今なら、農業振興策について、農家の相談にのって援助する義務があります。書中にも若干そのような記述がありますが、力関係は武士のほうが強い。
 名古屋城の築城は、外様大名の財力抑圧の効果があると同時に失業対策の側面もあったと推察します。副次的効果として、日本各地の人が集まることによって、産業とか文化の交流がありました。お互いのよいところをものまねしあって、技術が発達してゆくのです。
 有松の人たちの仕事は、第一次産業(農業)から第二次産業(製造業、わらでつくったわらじや蓑、かっぱ)有松絞りのタオル、ふろしき、着物の生地)、そして第三次産業(サービス業。東海道に茶店を開きつくったものを売る)という経過をたどっていきます。江戸から京都まで続く東海道の存在が後押ししてくれました。
 有松絞りの発案は、今でいうところでのベンチャー企業です。新しいアイデアで新しい商売を始めるのです。
 感想を続けます。作中に登場する人についてです。庄九郎のコンビが新助です。ふたりは親友です。ふたりがながめた夕暮れ時、阿久比の丘に立つ桜が有松絞りの絵柄のヒントです。
庄九郎21歳、恋の相手は、村長のひとり娘しの18歳で、数年後ふたりは結婚してこどもをもうけます。藍染を研究して成功に導くのが弥七です。彼は最初は、やっかいもの扱いされますが、興味をもったひとつのことを深く極める技術を性格として身につけていました。
 庄九郎は築城現場での土木事故で命を失いかけそうになった豊後の国(大分県)の菊一から染物のヒントをもらいます。人が困っていたら助けてあげるものです。助けるとこんどは、自分がだれかに助けられます。情けは人のためならず(自分のため)ということわざに該当します。
 チームワークと忍耐があります。有松に入植したひとたちは、農業がうまくいかず、仲間割れをしそうになりますが、最後にはふたたびひとつにまとまります。だれもが耐えます。背景には、みな、長男ではなく、次男以下だったということがあげられます。江戸時代は長男が家を継ぎます。次男以下三男等は、実家を継げません。実家にいても形見の狭い思いを一生しなければなりません。実家に戻っても将来への夢はなく、自由も制限されるのです。
 最後に女性が強い物語でした。庄九郎のつれあいにしてもお嬢さまというわけではありません。ほかの奥さん方も気が強い。法律とか生活習慣とかで男尊女卑扱いされていても、現実として、大昔から女性は男性をリードする立ち位置だったのでしょう。

(その後 近くを通りかかったので「有松」に立ち寄りました)



「絞りまつり」が開催されていました。
写真の下方では、観光客でにぎわっていますが、撮影ではカットしてあります。
町興し(まちおこし)のためにはおおぜいの人たちが協力しなければならないと感じました。
主催者のかたがた、お疲れさまでした。

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